道祖神様の下着は何色か。

404 your girlfriend not found

ちょっとそこまでタン食べに② 終

f:id:n_hermes:20191223165248j:plain蔵王温泉

松島を発ち山形へ向かう。夕焼け赤く染まる雁の腹雲の空のもと、仙台から山形を結ぶ仙山線の車窓から見える山々にはところどころ赤や黄色に紅葉した木々があり、秋の始まりを感じる。仙山線沿線で著名なものとして立石寺がある。山門派で有名な円仁によって建立され、岩に岩を重ねたような断崖絶壁に幾つもの経堂があり、山水画の風景を感じることができる。また松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだ場所として知られている。通常、岩に染み入るほど蝉が鳴いているのならば、喧しいはずだろう。だが芭蕉は山上から眼下にうねる緑の大地と頭上に広がる梅雨明けの昊天を見て蝉の鳴く現実世界の向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を感じ取ったのであろう。f:id:n_hermes:20191226021545j:plain

時間の都合上、立石寺には参れず車窓から眺めるだけであった。山形駅に到着するころには19:00を過ぎていた。私は急いで駅近のホテルを予約することにした。ホテルに荷物を投げ入れ夕飯を探すも駅周辺には居酒屋ばかりで定食屋が見つからなかったのでラーメン屋に入ることにした。食事をしている最中、隣の男が声をかけてきた。おおよそ40代後半で非常に酒臭く、面倒だが会話をしようにも呂律が回っていないのでただでさえ聞き取りにくい上に、方言の訛りがきつくて全くわからない。結局、店員さんに半ば通訳してもらう形で会話をしていたが、なぜかこの酔っ払いは私を気に入ったらしく飲み屋に連れて行ってくれるようだった。まあどうせ場末の安居酒屋であったとしても、旅行中でとりあえず酒を飲みたいという衝動に駆られ着いていくことにした。だがその酔っ払いが立ち止まったのはいかにも高級そうなバーであった。店を間違えたのではと思い何度も男に尋ねるが「大丈夫だ」の一点張りで聞く耳を持たない。恐る恐る店内に入ると女性のバーテンダーの方が出迎えてくれた。店内には私たち以外の客はおらず、薄暗い照明の下で、ジャズが流れグラスの触れ合う音や氷を割る音が時折混じっていた。バーテンダーの女性はベリーショートの髪のクールな方であった。注文を聞かれたので連れてきてくれた男と同じ、ウイスキーの水割りを頼んだ。ウイスキーのことなどよくわからないが、ただ出された酒はバニラ香と木の香りを感じる甘い香りは力強く豊かだが、バランスのとれた芳醇な味わいであった。男にいくらでも飲んでいいと言われたが、どうやら男はもう限界であったのかカウンターで眠りについてしまったようだ。せっかくなのでバーテンダーの方と話すことにした。彼女は生まれも育ちも山形だがロックバンドBUCK-TICKにはまり、今でも日本中でバンドのおっかけをしながらこのバーで働いているそうだ。最初の酒を飲み終え、次何を飲むか考えるにも全く知識がないので、お任せで作ってもらうことにした。次に出てきた酒は黒ビールを用いたシャンディガフで真っ黒に近い液体の表面に黄金色の泡の層が輝いている。通常のシャンディガフ同様、ホップの苦みがジンジャーエールで和らいでとても飲みやすいが、黒ビールがこの酒にさらなる深みを与えている。その後も山形の名産であるサクランボを用いたものや、私の出身である福岡をイメージしたカクテルなど色々と無理をいい様々な種類の酒を飲ませてもらった。酒を飲みながら話すうちに相当な時間が経っていたようで男も復活し、店を後にした。店を出る直前に彼女の行きつけの店が新宿にあるということで彼女の名刺とともに地図を描いてもらった。

 

店を出て男に礼を言った後、私はホテルで深い眠りについた。翌朝ホテルが朝食付きだたので会場に向かうと豪華な朝食が準備されていた。おかずはさることながら、米が非常に美味しい、あまりにも美味しいのでおかずに一切手を付けず一杯食べてしまった。何度もおかわりをして満腹になった私は蔵王温泉に向けて出発した。

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蔵王温泉山形市の南東部、宮城県との県境近くにある温泉だ。国内有数のスキー場があり、冬にはスキー客で賑わう。山形駅からバスで向かい、降車すると一面に広がる硫黄臭である。臭い臭いと思いながら、浴場へと向かった。

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温泉に入った後、昼食としてジンギスカンを食べた。ジンギスカンといえば北海道と思っていたが、どうやら鉄鍋を使って調理するのは蔵王が発祥だそうだ。湯上がりの体にビールと羊肉が染み渡る。

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昼食後、また東京へ7時間かけて帰宅した。今回の旅では人生初の東北で震災をものともせず、地域を明るくしていこうとする地元の方の活力を強く感じた。風景のみならず食事も素晴らしく、再度東北へ訪れようと思った次第である。


ちょっとそこまでタン食べに①

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9月初頭、夏休みを満喫している時にヤツが来た。

 

そう、成績表である。

 

春学期全く勉強することなく過ごしてきた当然の報いとして不可の暴風雨が成績に吹き荒れていた。

 

私の大学はありがたいことに親元にまで成績表を送付してくれる。

 

当然親からは成績に対する激しく詰められ、秋からは頑張りますと誓ったのであった。

 

そうして憂鬱な秋学期が始まるも勉強せねばと思うも、どうも身に入らない。そこで勉強をするきっかけを生むため旅行をしようとなった。10月に秋の青春18きっぷびあたる秋の周遊きっぷを用いて仙台へ行こうとなった。

 

なぜ仙台かって?

 

単純に牛タンが食べたかっただけである。

 

牛タンを食べてフル単するぞ(激寒)

 

こんな感じである。一人で行くのもあれなので大正義落単王アチ村先輩も行くはずであったが秋学期早々語学落単リーチがかかり課題を出され行けなくなってしまった。

 

また一人かぁ壊れるなぁと思いながら金曜2限の授業を終え、仙台へと鈍行列車の旅が始まった。

 

東京から仙台まで新幹線を使えば最短1時間半で到着するが、在来線だと7時間もかかる。

 

にしても長いさすが日本3位の面積を誇るだけはある。白河の関を超えて仙台まで40駅近くある。黒磯までは耐えることができるのだが黒磯を超えて福島に入るとお尻が限界を迎えた。キハ100系のおんぼろ座席が長時間乗車で疲労した私を蝕む。

 

昼過ぎに出発したが仙台に着いたのは21:00を過ぎていた。いつぞやの熊野とは違い東北一の都市であるため宿泊施設に困ることはなかった。

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謎にダブルベッドで2500円。地方宿泊施設の価格暴落が著しい。荷物を置き、夜の仙台へ向かった。

 

ホテルを出てすぐに銀河高原ビールのビアホールがあった。このビールは岩手のビールでコンビニなどで売っているが、樽生で売っているのに惹かれ入店した。銀河高原ビールの特徴として熱殺菌やろ過を行わないため濃厚な味を楽しむことができる。私はまず王道のヴァイツェンを注文した。フルーティーな香りとまろやかな甘味があり非常に美味しい。次に限定のスタウトを飲んだ。スタウトはやはり癖のある味だがアサヒの黒ビールがもともと好きな私にとってはこの深いコクとほろ苦さが病みつきになる。結局10杯以上飲んでしまい、はじめからかなりの出費をしてしまった。その後酔い覚ましとして仙台の街をあるいていたが杜の都といわれるだけあって市街地にも多くの木々が植えてあった。

 

翌朝私は松島へ行くことにした。松島は平安時代から和歌の歌枕としてしばしば用いられたが、名勝地として知られるようになったのは伊達氏が保護し整備した江戸時代以降であった。

 

やはり松島といえば松尾芭蕉であろう。松尾芭蕉が『奥の細道』で松島を訪れた際に、あまりにも絶景なので句が浮かばず、「松島や ああ松島や 松島や」という句を詠んだというあまりにも有名な逸話があるが、実際は後世の狂歌師の田原坊の作とされる。ただし、その場で句が思い浮かばなかったのは事実のようである。

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駅を降りると眼前に松島が広がっている。

 

奥の細道』にて松尾芭蕉は次のように記している。

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、 浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり 、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲 をのづからためたるがごとし。其気色窅 然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
 雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人 も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅 寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ 。 奥の細道 松尾芭蕉

 

現代語訳:そもそも言い古されたことだが、松島は日本第一の風光にして、およそ中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。東南の方角から海が入り込んでいて、入り江の長さは十二キロ。そこに浙江の潮を満たす。ありとあらゆる形をした島々をここに集め、そびえ立つものは天に向かって指をさし、臥すものは波にはらばう。あるものは二重に、またあるものは三重に重なって、左に分岐するもの、右に連続するもの。背に負うものがあるかと思えば、膝に抱いた姿のものがある。まるで幼子をいとおしんでいるようだ。松の葉の緑は濃く、枝は海風に吹かれてたわみ、その枝ぶりは人が整枝したようにさえ見える。その幽遠な美は、そのまま美しい女がよそおった姿に同じ。ちはやぶる神代の昔、大山神の一大事業だったのである。この天地創造の天工の業を、人間誰が筆に描き、言葉に尽くせるであろうか。雄島が磯は地続きで海に突き出た島。そこに雲居禅師の禅堂跡があり、座禅石などがある。また、松の木の下には、今も浮世を逃れて隠れ住む人などもまれに見えて、松葉や松笠などを燃やす煙が立ち上って、静かな草庵の佇まいがある。どんな人が住んでいるのだろうと、なつかしいような気持ちで近寄って見ると、月は水面に映り、昼の眺めとはまた違った風景が現出する。入り江に近いところに宿を取り、二階建ての開けた窓から見る眺めは、まさに白雲の中に旅寝するに等しいさまであり、これ以上の絶妙の気分はまたとない。

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これほどまで美しい松島もやはり東北なため2011年の東日本大震災の被害を受けた。浅瀬で津波の威力が減退し、多くの島々が緩衝体になったことで他の地域より被害が小さかったとはいえ、震度6弱地震と最大3.8mの津波が襲った。松島の島々は、くぐると寿命が延びるといわれる小藻根島の長命穴が崩れた他は大きな変化はなく、美しい景観を保った。ただし「松島」の地名発祥の地といわれ,平安の昔から歌枕の地でもある「雄島」に架かる渡月橋津波に流され、島へ渡れなくなった。福浦島に架かる福浦橋も橋桁が傾き危険な状況になった。多くの客を乗せて島々を巡る遊覧船も小型船73隻のうち26隻が係留していた桟橋ごと流されていた。
他の施設も津波被害を受け、旅館や飲食店のなかには営業を断念し、建物を取り壊したところもある。人気の観光スポットであったベルギーオルゲール博物館も閉館を余儀なくされた。松島には国宝瑞巌寺を始めとする歴史遺産があり、幸いなことに400年前に建てられたこれらの歴史的建造物群に津波被害は無かったが、地震による壁の亀裂、漆喰壁の崩落、顔料剥落等の被害を受けた。

津波により松島海岸は瓦礫と黒い泥に覆われた。松島は、宮城県観光の中心を担っており、観光復興は波及効果も大きいので、東北の震災復興のためには松島がいち早く復旧し、観光客や復興支援の人々の受け皿とならなければならない,との想いから復旧が急がれた。電気や水道が止まる中多くのボランティアが駆け付け、四月上旬松島海岸地区の黒い泥の撤去がほぼ完了し、それぞれの施設は復旧に専念することが出来た。

震災4か月後の7月末には、おみやげ物店、ホテル、観光施設等95%の施設が復旧し、夏休みには大勢のお客様に訪れた。松島には津波が来なかったと錯覚させるほど、穏やかで美しい景観に,訪れた観光客は驚いていた。奇跡的に被害が少なかった松島が早期に復旧・復興の姿を見せ、元気と活力を発信していくことが東北・被災地の復興につながると信じ、観光関係者が努力したおかげで,いち早く復旧を果たせたように思われる。

 

今では完全に復興し多くの観光客が連日訪れ、私は松島遊覧船は乗れなかった。そこで松島をさらに満喫するために食につぎ込むことにした。

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まずは牡蠣である。生牡蠣、焼き牡蠣、牡蠣飯、カキフライ、牡蠣の吸い物など牡蠣尽くしであった。

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次は今回の旅の目的、牛タンである。私が行った店は肉屋が経営する店舗で、女将さんが焼いてくれるサービスであった。東京でもねぎしなどいろいろ牛タンを食べることができる店はあるが、実際に仙台に行って食べるのは格別である。

 

松島を景色も食も思う存分楽しんだの後、温泉に入りたくなった。そこで蔵王温泉のある山形へと向かった。

 

次回 『激臭!?蔵王温泉 ジンギスカンに硫黄臭を添えて』お楽しみに!!

 

南紀巡礼行記④ 終

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 紀伊勝浦を発ち那智へ向かった。社や滝は本宮同様山奥にあるのでバスで向かうことにした。ここで私は熊野古道は嫌というほど歩いたのにもかかわらず、また歩き始めた。

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那智へと続く大門坂はその名の通り大きな門があったことに由来し、現在昔の面影を最も色濃く残している。距離1㎞高低差100mほどなので昨日一昨日ほどではないがやはり疲れる。

 

大門坂を登りきると熊野那智大社に着く。那智大社の境内は社とともに青岸渡寺という寺もある。これは神仏習合の名残であるが、もともとは熊野三山全てに仏堂はあった。しかし熊野本宮大社、熊野速玉大社では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されたが、那智では観音堂が残され、やがて青岸渡寺として復興した。もともとは那智の滝のを神聖視する原始信仰であったため他の2社よりも創建は遅かった。

 

そもそも熊野三山の神々はヤマトの神ではないのではないかと考える。古代熊野地方で人が多く住んでいたと考えられるのは熊野川河口付近の新宮近辺で新宮が熊野三山のなかではもっとも古い歴史をもつ神社であろうと考えられる。(推測に過ぎず、本宮があることから新しいのかもしれない)その新宮の主神は、熊野速玉大神と熊野夫須美大神の二神で、この二神は夫婦神だとされる。熊野速玉大社近くにある神倉神社が信仰の起源ではないかといわれており神倉神社にはゴトビキ岩というご神体がある。

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これを見てどう思う?

 

・・・

 

どう見ても男性器です。

 

本当にありがとうございました。

 

真面目に古代の人々はあの岩に象徴的な意味での自分達の父親の姿を見たのではないだろうか。自分達の父神に速玉神という名を付け、父親だけでは子供を生むことすらできないため、夫須美神という母神を生み出し、1組の夫婦神として崇拝するようになったのではないだろうか?熊野速玉大神と熊野夫須美大神は、自分達を生み出した「親神」ということで崇拝されてきたのではないかと考えてもよいのではないか?近世には熊野速玉大神はイザナギに、熊野夫須美大神はイザナミに同定されたが、たしかに熊野速玉大神・熊野夫須美大神は、熊野版のイザナギイザナミということができるといえる。新宮の主神のひとつである熊野夫須美大神を、のちに那智が主神とするようになったのだろうが、なぜ熊野夫須美大神の名を持ってきたのかは、やはり那智の信仰の起源となった那智の滝のためだと思われる。那智の滝の姿は濡れた女性器に比定されており、速玉神が屹立した男性器であるならば、濡れた女性器を思わせる那智の滝にはその妻である夫須美神の名がふさわしいと考えられたのであろう。

 

やっぱりHENTAIの遺伝子は古代からあったのだ!!

 

では本宮の神である家都美御子大神は何者かと考えたが、いまいちわからないといったのが感想である。現在は山の上にあるが当時は熊野川の中州の大斎原に存在していた。大斎原は、川に浮かぶ森、川面から突き出た森であり原生林が覆っていた時代においても、周囲を川に囲まれた姿は人々に崇拝の念を抱かせたのではないかと思われる。そこにどのような神格を与えたのかはあくまでも想像だが、この神の頭は『ケ』と読むことから食を意味するものであったのではないかと考える。狩猟採集時代において食料獲得は自然に左右されていたはずなので自分たちへ食料という恵みを与えるものとして神性を感じたのであろう。

 

 

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参詣した当時は創建1700年記念の改修が行われており一部しか見れなかったが速玉大社同様美しい朱の拝殿が美しかった。

 

那智大社青岸渡寺を参詣した後に那智の滝を見に行った。

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那智の滝に行く前に華厳の滝に訪れたがやはり水量、落差日本一は圧倒的であった。

那智を去り、また勝浦へと戻った。「勝浦漁港」は、日本屈指のまぐろ延縄の漁業基地として有名である。まぐろといえば静岡の焼津や神奈川の三崎や青森の大間なども有名だが、生鮮まぐろの水揚高では、この勝浦漁港が日本一の量である。

 

というわけで名物のマグロ丼をいただくことにした。

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これはマグロの赤身、中トロ、大トロ、せせり、ビンチョウとマグロの部位をふんだんに用いたものである。口の中で溶け行く魚の脂の美味しさたるや!

 

勝浦は温泉も有名で駅前に足湯があり旅の疲れを癒してくれた。

 

そして大阪へ向けて電車に乗った。

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紀勢本線は新宮を境に熊野山地と海がはっきりわかれてとても美しかった。

 

車窓には美しい海とともに様々な人間が夏を彩っていた。

 

くしゃくしゃのTシャツの男やセーラー服の学生、海水浴場で遊ぶ小学生etc....

 

今回の旅は多くの判断ミスとともに様々な人との出会いがあった。都心の大学に進学し、喧騒に包まれた都会では皆が日々に追われる一方で(もしかすると逆に追いかけているのかもしれない)、旅で出会い私の世話をしてくれた方々は自分の時間、お金を使ってまでも親切にしてくれた。たまたま出会った見ず知らずの人間を手助けすることは容易ではない。インターネットの普及により人々は簡単に連絡を取れるようになったが、はたして心の距離は変化したのだろうか?かくいう私もSNSやブログを書いているようにすっかり情報化された世界に組み込まれてしまっている。やれ日本は亡国だなんぞと評論家などは言うが日本は今回の旅で出会った人がいる国はまだ捨てたものでないなと思った。

 

最後に旅でお世話になった方への感謝とともに夏に関する短歌で終わらせるとする。

 

 

 

約束が叶うことより約束を交わしたことが夏の頂点 / 倉野いち

 

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ/ 小野茂

南紀巡礼行記③

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熊野三山

昨夜の泥酔にしては早起きができた。そして駅前のバス停に向かい、熊野三山へ向かうことにした。

 

熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称である。熊野の地はイザナミが葬られた地と日本書紀にあり、古来より修験道の地とされた。奈良時代は、熊野本宮大社、熊野速玉大社の2社で那智は修行の地とされてきた。3社が興ってくると、3社のそれぞれの神が3社共通の祭神とされるようになり、また神仏習合により、熊野本宮大社主祭神の家都御子神阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神薬師如来熊野那智大社熊野牟須美神は千手観音とされた。平安時代後期になると、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、熊野の地は浄土と見なされるようになった。浄土とされたのは霊場であったことと皇室神話と縁の深い吉野、伊勢に囲まれていたことも関係していたといえよう。

 

私が最初に向かったのは熊野本宮大社である。現在の社地は山の上にあるが昔は熊野川の中州にあった。明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。現在、旧社地の中州は「大斎原」と呼ばれ、日本一高い大鳥居が建っている。

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それにしても階段の段数が多すぎて、拝殿に向かう頃には息が切れていた。

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拝殿には4つの宮が建っており、右から東御前、証誠殿、中御前、西御前となっている。そして次の順番で参るのが正しいとされている。

 

①証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神(素戔嗚尊

②中御前(結宮・第二殿)速玉大神

③西御前(結宮・第一殿)夫須美大
④東御前(若宮・第四殿)天照大神

 

また熊野のシンボルとして八咫烏が有名である。八咫烏神武天皇の東征の際に案内した三本足のカラスである。熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏熊野大神素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されている。三本足は天、地、人を表し太陽を意味する三つ巴とも関係しているといわれているが、記紀に三本足の記述はなく平安以降にみられることから中国の太陽の化身たる三足烏の伝説が融合したのかもしれない。

 

本宮を参り大斎宮に行った後、せっかく来たので軽い気持ちで熊野古道を歩こうと思った。熊野古道はいくつかのルートがあり、そのうち多くの旅人が歩いたのは、京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路、そして田辺から山中に分け入り熊野本宮に向かう「中辺路」である。そのほか、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう「大辺路」、高野山から熊野へ向かう「小辺路」、伊勢と熊野を結ぶ「伊勢路」、吉野・大峯と熊野本宮をつなぐ山岳修験道大峯奥駈道」などがある。

 

そして今回私が歩いたのは中辺路である。熊野本宮大社から滝尻王子までの約38㎞を歩くことにした。

 

もう一度言う38㎞である。

 

昨日の反省が全くできていない。とりあえずノリでどうにかなると考える死文脳がよくなかった。最初はどうにかなる。

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本宮から8㎞ぐらい離れた発心門王子でやめておけばよかった。なぜかアドレナリンが異常分泌していたのかまだまだいけるなど錯覚し調子に乗りすぎた。さらに地獄なことに携帯の充電も切れ、絶望に陥る。バス停があったのでバスの時刻表見てみる。

 

すると。。。。

 

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週に1回しか来ないやん!!(# ゚Д゚)

 

そうこうするうちに日が暮れてしまった。さすがに初めての山道を夜歩くのは危険すぎる。ということで野宿が確定した。

 

私は山伏か?

 

幸い食料と水があったので栄養面では困らなかったが、最大の敵は虫である。

 

蚊にかまれ、かゆすぎて眠ることもできないとイライラを募らせてる中、ふと空を見るとそこには満天の星空が広がっていた。光など全くないので光害もなく様々な星が見える。高い空を見上げ、無数の星の光の中にいかに私たちのいるこの地球の小ささを、従ってどのくらい私自身の小さいかを考えていた。肉眼では漆黒に見える星と星の間にあるスペースも我々には見えない明るさで地球に光を伝えている。一つ一つの星々が何かを伝えようと躍起になっているのだろうか。星はそれぞれ光の強さ、色、大きさなど様々な個性があり、自分が何者であるかを饒舌に伝えようとしているかもしれないが、今の私達にはとけない暗号のようなものでもどかしさもある。

 

当時参詣していた人々もこの夜空を見ていたのだろうか?いや星々にとっては人間の営みなど刹那であり、私たちが見ているのではなく見られているのだろう。夜空の星という目にはどのように見えているのだろうか?

 

まあ見る見られるの問題はいかにせよ、常に天を見上げ、聴き、光を待つ場所にいるのだ。

 

こんなくさいことを考えていると、いつのまにか眠りに落ちていた。

 

翌朝結局目覚めはのどの渇きと体のかゆみであった。起きて水を飲むとすぐに出発し、滝尻王子まで駆け抜けた。そして参拝した後、バス停のある発心門王子まで急いで戻り、本宮までバスに乗って私の熊野古道の修行は終えた。

 

しかし本宮に到着したら終わりというわけではなかった。本宮から新宮までのバスはもう終わっていたのだ。もう2日連続で野宿はしたくないという強い意志から、ヒッチハイクをすることを決意した。もうすでに多くの観光客、参詣客は帰っていたので至難の業であった。待つこと1時間、地元の林業の方が麓に用事があるといって、送り届けてくれた。本当にうれしくて涙がでた。新宮まで送り届けてもらい何度もお礼をしたのち、那智速玉も参り、紀伊勝浦へと向かった。

 

紀伊勝浦は温泉やマグロで有名なためホテルもそこそこあるだろうと踏んでいたのだが、温泉宿が高すぎる。コンビニでお金を降ろそうにもコンビニがない。安そうなビジネスホテルで値段を聞くもその時財布に入っていたお金では払うことができず。途方に暮れていると、ホテルの方が無料で宿泊させてくれた。さらに夕ご飯までごちそうしてくれたのだ。

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右手にあるのは熊野や吉野の郷土料理で高菜の浅漬けの葉でくるんだ弁当用のおにぎ『めはりずし』である。南紀・熊野地方の山仕事や農作業で食べる弁当としてはじまったと伝えられている。目張り寿司という名称は、大きく口を開けて食べるため、それに伴い自然と目も見開く表情に由来するという説や、目を見張るほど大きくておいしいからという説、あるいは、おにぎりに目張りするよう完全に包み込むことに由来するという説もある。素朴な味わいながら高菜の浅漬けの塩味が非常に美味しかった。

 

翌朝さすがに無料で泊めてもらい申し訳なかったので、ホテルの朝食と清掃の手伝いをし、那智へ向かった。

 

次回 『那智・勝浦 さらば紀伊半島』お楽しみに!! 

 

南紀巡礼行記②

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前回は謎に煙草について語っただけで終わったので今回は伊勢神宮についてちゃんと書くことにする。

 

読書しながら煙草を吸い時間をつぶし、ようやく列車が来た。

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何もない柘植駅とこれでおさらばである。大阪付近の関西本線は通勤路線といったところだが私が乗った区間は非電化でローカル色が非常に強い。

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車窓からは夏色に染まった田園風景が広がる。

 

ようやく本来より2時間ほど遅れて伊勢に到着した。

 

駅を降りるとすぐに社があり、伊勢神宮とあるが、その社の主祭神天照大御神ではない。伊勢神宮天照坐皇大御神天照大御神)を祀る皇大神宮と、豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮が主となっており、一般に皇大神宮は内宮、豊受大神宮は外宮と呼ばれる。駅から近いのは豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)である。

 

豊受大御神とは衣食住の神であり、『古事記』では伊邪那美命から生まれた和久産巣日神の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相に鎮座したと記されている。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売神保食神などと同様に、稲荷神と習合し、同一視されるようになった。

 

外宮鎮座の由来は記紀にはなく、伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の御饌の神、等由気太神=豊受大御神を近くに呼び寄せなさい」と言われたため、外宮に祀るようになったとされ、豊受大御神はもともと伊勢の神ではないようだ。

 

豊受大御神日本書紀には記述がなく古事記に名前と親しか記されていない。だが同一視された大気都比売神保食神には共通する神話が存在する。どちらの神も体中から食物を出していたため、不快に感じた神に殺害され、遺体から穀物が生じたというものである。

 

殺された神の死体から作物が生まれたとするものである神話はハイヌウェレ型神話と呼ばれ、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つである。芋類を切断し地中に埋めると、再生し食料が得られることが背景にある。この神話は東南アジアやオセアニアから日本へ伝わったものと考えられる。しかし日本神話においては、発生したのは宝物や芋類ではなく五穀である。そのため日本神話に挿入されたのは、東南アジアから一旦中国南方部を経由して日本に伝わった話ではないかと思われる。

 

こんな神話は置いておいて、外宮境内は木々に覆われ駅前の俗な世界とは異なり、非日常空間を形成している。

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豊受大御神を祀る正宮のほかに正宮と関係のある神様が祀られている別宮も参拝して、内宮へと向かった。

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内宮と外宮は3㎞ほど離れており、バスが運行されているのだが私はバス代をケチって徒歩で行くことにした。この選択が大不正解であった。8月頭の気温が30度を優に超える中、太陽の熱が放射するアスファルトの道を30分も歩くのは地獄であった。

 

結局、バス代以上に飲み物にお金を使い、ただ肉体的にも金銭的にも負担を強いただけであった。

 

ヘロヘロの状態で内宮の参道に到着したが、参道には古き街並みとともに洒落たカフェや名物グルメを提供する店が数多くあった。

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私はお昼休憩としてありきたりだが赤福を食べることにした。いやあ、うまい。この餡の甘さが私の疲れた体をいたわってくれるようであった。

 

参道を通り抜け内宮境内へ入ると先ほどまでの活気に満ちた空間とは全くことなる空間が広がっていた。

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境内は寂莫ともいえぬ御稜威津々浦々と及んでいる。先ほどまで騒がしかった観光客たちも空気を察したのか、とたんに静かになった。五十鈴川にかかる宇治橋を渡ると完全に俗世と切り離された世界が広がっていた。

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内宮の正宮の目の前まで行くと畏怖ともいうべきか底知れぬ冷やかで厳粛な感じが頻しきりに首筋に襲いかかって、全身がゾクゾクして来るのを我慢する事が出来なかった。外宮、内宮の正宮とも賽銭箱はなく、「私幣禁断」といい、天皇陛下以外のお供えは許されていなかったためであるが、正宮に実際に訪れると個人的な願いというものより、
日頃の加護に対する感謝を神に伝える場所だと自然と思い知らされるような場であった。 

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伊勢の後、志摩や鳥羽のほうへ行くか考えたが、せっかくならということで熊野三山を参詣しようとなり新宮まで行くことにした。

 

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駅の待合室にて

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日本有数の雨量を誇る尾鷲。尾鷲の天気だけ違うというのは本当でこの写真を撮った直後雨に見舞われた。

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新宮に着いたときはすっかり夜で駅の近くをプラプラ歩いていると寿司屋があったので入ることにした。

 

夕食を食べビジネスホテルでも探そうかと思っていたが、本当に宿泊施設がない。なんとか民宿の人に無理を言って、泊めてもらった。

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民宿には居酒屋が内接しており、美人な店員さんにあおられたのと、旅の疲れかかなり酔ってしまいあまり覚えていない。。。。

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酒に酔って終わりました。とあまりにもひどいが頑張りすぎるとやる気を失ってしまうので、まあこんなところで終わるとするか

 

次回 『熊野三山参詣 地獄の熊野古道』 お楽しみに!!

南紀巡礼行記①

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なぜ私は伊勢へ向かっているのだろうか...

 

本来帰省のために青春18きっぷで東京から福岡へ行くだけであった。だが豪雨により山陽、山陰の在来線が不通となり新幹線で帰ることを余儀なくされた。このまま帰ろうにも実家は両親共に祖母の介護のため不在であり、帰ることができない。仕方なく両親が実家に戻るまで関西で時間潰しとて伊勢へ行くことにした。

 

JRのみで伊勢に行くのは非常に煩雑である。私が宿泊していたのが吹田だったので吹田から伊勢に行くには、まず東海道線草津まで行き、草津線で柘植まで行き、関西本線で亀岡へ。そして多気を経由してようやく到着するといったものである。近鉄特急を使えば2時間で着くのが、青春18きっぷの制約を受けると倍の4時間もかかるのである。

 

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とりあえず始発で向かうも乗り過ごしたため、当初の計画は大きく崩れる。柘植へと向かうもこの区間関西本線は本数が少ないため1時間ほど待たねばならない。

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だが柘植駅に降りてこれである。何もない。周囲に何もなさすぎてすることがない。仕方なく煙草に火をつけることにした。

 

 

煙草はやはり悪である。何もいいことはないと喫煙者の私ですらそう思う。健康被害が叫ばれる現在でも喫煙者が今なお存在し続けることから煙草は悪魔ではないかと思うが、丁度このテーマにぴったしな小説として芥川龍之介の『煙草と悪魔』がある。

 

www.aozora.gr.jp

 

話としては煙草を日本に伝来させたのは悪魔という伝説を基にしている。悪魔がザビエルに仕える宣教師に化け、日本にやってきた。ところが日本にはまだキリシタンがおらず、誘惑する相手がいない。そこで暇つぶしとして園芸をすることにした。悪魔は日本の気候と寺の梵鐘の音がいざなう眠気を払い、鋤鍬で田畑を耕し、耳の中を種をまいた。この種こそが煙草の種であった。幾月か経ち、通りかかった牛商人が煙草に興味を持ち、何の作物なのかを悪魔にたずねた。牛商人がキリシタンであることを知った悪魔は、畑の作物の名前を当てたら畑を牛商人に譲る替わりに当てられなかったときは、牛商人の体と魂を手に入れるという契約を交わす。牛商人は契約の期限の最終日に畑で牛を暴れさせる。慌てた悪魔が思わずの口から畑に植えられた作物が煙草であること言ってしまい、牛商人が勝つ。

 

芥川は作品の最後で、「煙草があまねく日本全土に普及したところを見れば、牛商人に負けたはずの悪魔は勝っていたのではないだろうか」「キリスト教は江戸時代になり禁止され悪魔は一度姿を消したが明治以降、再渡来した彼の動静を知ることが出来ないのは、返す返すも残念である」と結んでいる。

 

結論として明治以降急速に進んだ西洋化が大正になり、落ち着き社会の矛盾が明らかになる中で芥川の西洋文化の日本文化を脅かすような悪魔性への恐怖と善悪は表裏一体であることを述べているのかなと思う。

 

まあ2020東京オリンピックを前にますます喫煙者への風当たりが強いが、成人男性のほとんどが喫煙者であった大正でも煙草が悪であったということは興味深い。

 

だいぶん話が逸れてしまったので、今回はここまでにしよう。

 

次回 『灼熱の伊勢神宮へ』お楽しみに!!

 

 

 

 

 

 

或阿呆の東欧旅行⑭ ブダペスト編-2 終

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東欧旅行 ブダペスト編 最終回

ブダ王宮を見た後、私たちはブダペストを一望できるゲッレールトの丘へ向かった。もともと、ここにはハプスブルク家支配下ではマジャール人を監視する抑圧の象徴であったが、現在は街を一望できる観光地として、プロポーズの地や、また富裕層の居住域となっており、大使館員等の居住域ともなっている。

 

丘を登り切ったころには日が暮れ始めていた。

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次第に街中に街燈が点きはじめ、刻一刻と夜の世界へと飲まれていく。

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この黄昏にブダペストの街が包まれたと思うとすぐに日は沈み闇へと誘われてゆく。

この時点でも最高に美しいのだが完全に日が沈んだ時、私たちは絶景に出会った。

 

 

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人は真に美しいものに出会った際には何も言葉を発せない。美しき対象に己が飲まれているのだ。どんあ美辞麗句を用いても伝えられない。人に伝えることが逆におこがましく感じてしまえるのだ。先ほどまでにぎやかであった周囲もこの景色の前に声は奪われ、いるものすべてが感動していた。中には涙を流すものもおり、それほどこの景色は美しかった。私たちは東欧旅行最後の都市で、旅行の意義がすべてこれに詰まっていると感じた。気が付くとこの景色を2時間も見ていた。旅行という限られた時間の中で通常は時間に追われ、やりくりしようと思うものだが、いつまでもいたいと思えたのは初めてであった。だが無情にも空腹という生理現象が我々を我に返させ、丘を降りるように仕向けてくれた。丘を降りると昼に眺めた街と全く違う世界が広がっていた。

 

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美しい景色に満足した我々は気分を良くし豪遊することにした。

 

ハンガリーは景色だけでなく食事も一級である。ハンガリー料理は数種類のパプリカをふんだんに使う料理が多く、食卓では赤い色が目立つ。内陸国のため魚介類より、メインはお肉を使うものが多い。また世界三大珍味の一つであるフォアグラや貴腐ワインのトカイワインが有名である。

 

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フォアグラ美味しいぃ!!!

人生で初めてこんなにフォアグラを食べた。貴腐ワインもサイゼのグラスワインを飲むように飲んだ。これだけ食べたのでさぞ会計もいっただろうと思ったが、二人で5000円と破格の安さである。そして圧倒的な美味しさで感動であった。

 

ここで絶景と美食を堪能した私たちはその日は満足して寝るはずだったのだが、泊まったホテルで事件が起こる。

 

私たちが泊まったところはゲストハウスで、一部屋に12台の二段ベッドがあり共用のキッチンとリビングがあるところであった。

ゲストハウス内では宿泊者の交流が盛んで、毎晩イベントが開かれているようだ。

 

そこで事件は起こった。

 

その日はゲストハウス内でパーティーがあり、宿泊者たち全員が酔っていた。その中で男女数名が酒を飲みながらカードゲームに興じていた。男女の中にはカップルで来ているものがいたが、彼氏のほうが泥酔し、先に部屋に戻った。残された彼女のほうは引き続きカードゲームをしていたのだが、彼氏がいないことをいいことに男たちが酒を飲ませ彼女のほうも潰されてしまった。この後既定路線でことをするのだろうとみていたが、その場所が悪かった。それは彼氏のいる部屋でしたのである。翌日食堂に行くと案の定殴り合いの喧嘩をしていた。男も悪いが、彼氏も彼女を置いて先に酔いつぶれるのも悪いとまさに喧嘩両成敗である。この事件のせいでゲストハウス内の空気が険悪になり、でることにした。その後はソ連の衛星国時代の拷問などの歴史を展示する「恐怖の館」や市場に行ったが、ブダペストに関しては夜景と美食とこのエピソード以外特段これといったことはなかった。

 

結局毎日丘に登り、夜景を見てその後豪華な夕食を食べることを繰り返し、ブダペストを過ごしていった。

 

最後に

 

思えば期末テストが終わり、酔っ払いのノリで決めた旅行がここまで充実したものになるとは思わなかった。2週間の旅行は激動の時であった。最初から飛行機を逃しそうになり、連日夜行列車で風呂に入れぬ日々、ぼったくりにあったり、スリの被害にあいそうになったり、時には友人と喧嘩することもあった。インターネットが発達した現代、検索すればいつでも情報が手に入る世の中になった。だがスマホやパソコンの液晶越しのものではなく空気感など実際に行かねば感じれないものが多くあった。中島敦の文字禍にて文字が生まれたことによって人は文字を通してしか世界を認識できなくなったことを説いたが、現在は情報化が進んだ結果、我々はインターネットを通してあらゆるものを認識することで失ったものが多くあるのかもしれない。学生団体のように人とのつながりとか言葉の壁はないとほざいているが、今回一番感じたこととして言語の壁は存在するということだ。やはり私たちは言語という媒体を通してしか認識できない。バベルの塔ではないが、世界がもし共通の言語を話すのであればある程度の認識が統一されるのかもしれない。だが様々な言語がある以上、言語が介在することによって認識がゆがめられてしまう。それでも人は様々な言語を持つことが逆に多様性を生むことになり、素晴らしいことなのかもしれない。まあ、これ以外にも言いたいことは山ほどあるが、いい加減東欧旅行について書くのも飽きたし、まあこれ以上ぐだぐだと書き、中だるみするのもあれので一旦ここで私の東欧旅行の記録はここで終えるとする。