道祖神様の下着は何色か。

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ちょっとそこまでタン食べに①

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9月初頭、夏休みを満喫している時にヤツが来た。

 

そう、成績表である。

 

春学期全く勉強することなく過ごしてきた当然の報いとして不可の暴風雨が成績に吹き荒れていた。

 

私の大学はありがたいことに親元にまで成績表を送付してくれる。

 

当然親からは成績に対する激しく詰められ、秋からは頑張りますと誓ったのであった。

 

そうして憂鬱な秋学期が始まるも勉強せねばと思うも、どうも身に入らない。そこで勉強をするきっかけを生むため旅行をしようとなった。10月に秋の青春18きっぷびあたる秋の周遊きっぷを用いて仙台へ行こうとなった。

 

なぜ仙台かって?

 

単純に牛タンが食べたかっただけである。

 

牛タンを食べてフル単するぞ(激寒)

 

こんな感じである。一人で行くのもあれなので大正義落単王アチ村先輩も行くはずであったが秋学期早々語学落単リーチがかかり課題を出され行けなくなってしまった。

 

また一人かぁ壊れるなぁと思いながら金曜2限の授業を終え、仙台へと鈍行列車の旅が始まった。

 

東京から仙台まで新幹線を使えば最短1時間半で到着するが、在来線だと7時間もかかる。

 

にしても長いさすが日本3位の面積を誇るだけはある。白河の関を超えて仙台まで40駅近くある。黒磯までは耐えることができるのだが黒磯を超えて福島に入るとお尻が限界を迎えた。キハ100系のおんぼろ座席が長時間乗車で疲労した私を蝕む。

 

昼過ぎに出発したが仙台に着いたのは21:00を過ぎていた。いつぞやの熊野とは違い東北一の都市であるため宿泊施設に困ることはなかった。

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謎にダブルベッドで2500円。地方宿泊施設の価格暴落が著しい。荷物を置き、夜の仙台へ向かった。

 

ホテルを出てすぐに銀河高原ビールのビアホールがあった。このビールは岩手のビールでコンビニなどで売っているが、樽生で売っているのに惹かれ入店した。銀河高原ビールの特徴として熱殺菌やろ過を行わないため濃厚な味を楽しむことができる。私はまず王道のヴァイツェンを注文した。フルーティーな香りとまろやかな甘味があり非常に美味しい。次に限定のスタウトを飲んだ。スタウトはやはり癖のある味だがアサヒの黒ビールがもともと好きな私にとってはこの深いコクとほろ苦さが病みつきになる。結局10杯以上飲んでしまい、はじめからかなりの出費をしてしまった。その後酔い覚ましとして仙台の街をあるいていたが杜の都といわれるだけあって市街地にも多くの木々が植えてあった。

 

翌朝私は松島へ行くことにした。松島は平安時代から和歌の歌枕としてしばしば用いられたが、名勝地として知られるようになったのは伊達氏が保護し整備した江戸時代以降であった。

 

やはり松島といえば松尾芭蕉であろう。松尾芭蕉が『奥の細道』で松島を訪れた際に、あまりにも絶景なので句が浮かばず、「松島や ああ松島や 松島や」という句を詠んだというあまりにも有名な逸話があるが、実際は後世の狂歌師の田原坊の作とされる。ただし、その場で句が思い浮かばなかったのは事実のようである。

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駅を降りると眼前に松島が広がっている。

 

奥の細道』にて松尾芭蕉は次のように記している。

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、 浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり 、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲 をのづからためたるがごとし。其気色窅 然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
 雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人 も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅 寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ 。 奥の細道 松尾芭蕉

 

現代語訳:そもそも言い古されたことだが、松島は日本第一の風光にして、およそ中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。東南の方角から海が入り込んでいて、入り江の長さは十二キロ。そこに浙江の潮を満たす。ありとあらゆる形をした島々をここに集め、そびえ立つものは天に向かって指をさし、臥すものは波にはらばう。あるものは二重に、またあるものは三重に重なって、左に分岐するもの、右に連続するもの。背に負うものがあるかと思えば、膝に抱いた姿のものがある。まるで幼子をいとおしんでいるようだ。松の葉の緑は濃く、枝は海風に吹かれてたわみ、その枝ぶりは人が整枝したようにさえ見える。その幽遠な美は、そのまま美しい女がよそおった姿に同じ。ちはやぶる神代の昔、大山神の一大事業だったのである。この天地創造の天工の業を、人間誰が筆に描き、言葉に尽くせるであろうか。雄島が磯は地続きで海に突き出た島。そこに雲居禅師の禅堂跡があり、座禅石などがある。また、松の木の下には、今も浮世を逃れて隠れ住む人などもまれに見えて、松葉や松笠などを燃やす煙が立ち上って、静かな草庵の佇まいがある。どんな人が住んでいるのだろうと、なつかしいような気持ちで近寄って見ると、月は水面に映り、昼の眺めとはまた違った風景が現出する。入り江に近いところに宿を取り、二階建ての開けた窓から見る眺めは、まさに白雲の中に旅寝するに等しいさまであり、これ以上の絶妙の気分はまたとない。

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これほどまで美しい松島もやはり東北なため2011年の東日本大震災の被害を受けた。浅瀬で津波の威力が減退し、多くの島々が緩衝体になったことで他の地域より被害が小さかったとはいえ、震度6弱地震と最大3.8mの津波が襲った。松島の島々は、くぐると寿命が延びるといわれる小藻根島の長命穴が崩れた他は大きな変化はなく、美しい景観を保った。ただし「松島」の地名発祥の地といわれ,平安の昔から歌枕の地でもある「雄島」に架かる渡月橋津波に流され、島へ渡れなくなった。福浦島に架かる福浦橋も橋桁が傾き危険な状況になった。多くの客を乗せて島々を巡る遊覧船も小型船73隻のうち26隻が係留していた桟橋ごと流されていた。
他の施設も津波被害を受け、旅館や飲食店のなかには営業を断念し、建物を取り壊したところもある。人気の観光スポットであったベルギーオルゲール博物館も閉館を余儀なくされた。松島には国宝瑞巌寺を始めとする歴史遺産があり、幸いなことに400年前に建てられたこれらの歴史的建造物群に津波被害は無かったが、地震による壁の亀裂、漆喰壁の崩落、顔料剥落等の被害を受けた。

津波により松島海岸は瓦礫と黒い泥に覆われた。松島は、宮城県観光の中心を担っており、観光復興は波及効果も大きいので、東北の震災復興のためには松島がいち早く復旧し、観光客や復興支援の人々の受け皿とならなければならない,との想いから復旧が急がれた。電気や水道が止まる中多くのボランティアが駆け付け、四月上旬松島海岸地区の黒い泥の撤去がほぼ完了し、それぞれの施設は復旧に専念することが出来た。

震災4か月後の7月末には、おみやげ物店、ホテル、観光施設等95%の施設が復旧し、夏休みには大勢のお客様に訪れた。松島には津波が来なかったと錯覚させるほど、穏やかで美しい景観に,訪れた観光客は驚いていた。奇跡的に被害が少なかった松島が早期に復旧・復興の姿を見せ、元気と活力を発信していくことが東北・被災地の復興につながると信じ、観光関係者が努力したおかげで,いち早く復旧を果たせたように思われる。

 

今では完全に復興し多くの観光客が連日訪れ、私は松島遊覧船は乗れなかった。そこで松島をさらに満喫するために食につぎ込むことにした。

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まずは牡蠣である。生牡蠣、焼き牡蠣、牡蠣飯、カキフライ、牡蠣の吸い物など牡蠣尽くしであった。

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次は今回の旅の目的、牛タンである。私が行った店は肉屋が経営する店舗で、女将さんが焼いてくれるサービスであった。東京でもねぎしなどいろいろ牛タンを食べることができる店はあるが、実際に仙台に行って食べるのは格別である。

 

松島を景色も食も思う存分楽しんだの後、温泉に入りたくなった。そこで蔵王温泉のある山形へと向かった。

 

次回 『激臭!?蔵王温泉 ジンギスカンに硫黄臭を添えて』お楽しみに!!