南紀巡礼行記①
なぜ私は伊勢へ向かっているのだろうか...
本来帰省のために青春18きっぷで東京から福岡へ行くだけであった。だが豪雨により山陽、山陰の在来線が不通となり新幹線で帰ることを余儀なくされた。このまま帰ろうにも実家は両親共に祖母の介護のため不在であり、帰ることができない。仕方なく両親が実家に戻るまで関西で時間潰しとて伊勢へ行くことにした。
JRのみで伊勢に行くのは非常に煩雑である。私が宿泊していたのが吹田だったので吹田から伊勢に行くには、まず東海道線で草津まで行き、草津線で柘植まで行き、関西本線で亀岡へ。そして多気を経由してようやく到着するといったものである。近鉄特急を使えば2時間で着くのが、青春18きっぷの制約を受けると倍の4時間もかかるのである。
とりあえず始発で向かうも乗り過ごしたため、当初の計画は大きく崩れる。柘植へと向かうもこの区間の関西本線は本数が少ないため1時間ほど待たねばならない。
だが柘植駅に降りてこれである。何もない。周囲に何もなさすぎてすることがない。仕方なく煙草に火をつけることにした。
煙草はやはり悪である。何もいいことはないと喫煙者の私ですらそう思う。健康被害が叫ばれる現在でも喫煙者が今なお存在し続けることから煙草は悪魔ではないかと思うが、丁度このテーマにぴったしな小説として芥川龍之介の『煙草と悪魔』がある。
話としては煙草を日本に伝来させたのは悪魔という伝説を基にしている。悪魔がザビエルに仕える宣教師に化け、日本にやってきた。ところが日本にはまだキリシタンがおらず、誘惑する相手がいない。そこで暇つぶしとして園芸をすることにした。悪魔は日本の気候と寺の梵鐘の音がいざなう眠気を払い、鋤鍬で田畑を耕し、耳の中を種をまいた。この種こそが煙草の種であった。幾月か経ち、通りかかった牛商人が煙草に興味を持ち、何の作物なのかを悪魔にたずねた。牛商人がキリシタンであることを知った悪魔は、畑の作物の名前を当てたら畑を牛商人に譲る替わりに当てられなかったときは、牛商人の体と魂を手に入れるという契約を交わす。牛商人は契約の期限の最終日に畑で牛を暴れさせる。慌てた悪魔が思わずの口から畑に植えられた作物が煙草であること言ってしまい、牛商人が勝つ。
芥川は作品の最後で、「煙草があまねく日本全土に普及したところを見れば、牛商人に負けたはずの悪魔は勝っていたのではないだろうか」「キリスト教は江戸時代になり禁止され悪魔は一度姿を消したが明治以降、再渡来した彼の動静を知ることが出来ないのは、返す返すも残念である」と結んでいる。
結論として明治以降急速に進んだ西洋化が大正になり、落ち着き社会の矛盾が明らかになる中で芥川の西洋文化の日本文化を脅かすような悪魔性への恐怖と善悪は表裏一体であることを述べているのかなと思う。
まあ2020東京オリンピックを前にますます喫煙者への風当たりが強いが、成人男性のほとんどが喫煙者であった大正でも煙草が悪であったということは興味深い。
だいぶん話が逸れてしまったので、今回はここまでにしよう。
次回 『灼熱の伊勢神宮へ』お楽しみに!!