海辺のダレカ
「それで、お金のことはなんとかなったんだね?」とカラスと呼ばれる少年は言う。いくぶんのっそりとした、いつものしゃべりかただ。深い眠りから目覚めたばかりで、口の筋肉が重くてまだうまく動かないときのような。でもそれはそぶりみたいなもので、じっさいには隅から隅まで目覚めている。いつもと同じように。 村上春樹 『海辺のカフカ』
大学1年の春休みのことであった———。
秋学期の成績が発表され、般教1つ以外は単位取得。素晴らしい出来である。お金がないので、また青春18きっぷで帰省することになった。
青春18きっぷ・・・
そう、
君はこれから世界でいちばんタフな大学1年生にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。(カラスの少年感)
はい、地獄の青春18きっぷ旅行のスタートである。いつものように4時半の始発で東京に向かい、長き長き東海道線を乗り継いでいく・・・
そんな退屈な東海道線のお供は
デン!!!
銀色のヤツ!!!(地獄)
はい、敗北者の飲み物、世相を反映した日本の闇の体現者、酒税法に苛め抜かれたメーカーの怨念の最高傑作であるスト缶である。もう東海道線なんて青春18きっぷで何往復もしていたら飽きた。本を読むにも山陽本線までに読み切りそうなので仕方ないのである。こんなゴミを胃に流し込んでいく。
当初は京都または大阪で宿泊する予定であったが、どうしても澄んだ出汁のうどんを食したくなってしまった。
うどんの総本山讃岐国へいざ参らん!!
わーい四国に上陸するぞぉ(小並感)
やっと瀬戸大橋である。いやぁ長かった。本当に長かった。4:30すぎに出発したの高松に到着したのは夕方18:00すぎである。駅前のホテルに着き、長旅でボロボロの私の体は優しく労わってくれるうどんよりも酒しかない!!!(本末転倒)というわけで本店は確か丸亀だが骨付き鳥の名店一鶴に行くことにした。
いやぁうまい!!!
酒しか勝たん!!
骨付き鳥は親鳥と雛鳥を選ぶことができたのだが、『親鳥』はしっかり噛みごたえがあり、噛むほどに味わい深い肉の旨味が染み渡る。柔らかい鶏肉の『雛鳥』は柔らかく優しい味わいと共に親鳥以上に脂が口に広がっていく。味付けは胡椒が効いたパンチのある味で、このスパイシーさがビールを流し込まずにはいられない。本当は夜の高松をもっと観光したかったのだが疲労困憊かつ泥酔の私には無理でした。ごめんなさい。
翌朝高松観光とともにうどん巡りをした。
ここで
【悲報】うどんのために来たのに一枚もうどんの写真が残っていない模様(´;ω;`)
本当に申し訳ない。いや全部美味しかった。でも一枚も写真が残っていない。全部で6軒ほど行ったのだが一枚もないなんて。
気を取り直して高松観光にでも触れていくことにする。高松を観光したと言いつつも、一か所、栗林公園しか行っていないのだが…
栗林公園はもともとはこの地を治めていた生駒氏の家臣の屋敷が築かれたことに始まり、生駒氏が改易された後、高松藩初代藩主、松平頼重が隠居後の屋敷を建てた。その後飢饉対策の救済事業で庭園の土木工事を行い、拡張を進め頼重が屋敷を構えて約100年たった1745年に現在の姿へと整備された。この庭園は国の特別名勝に指定されているが、特別名勝の庭園の多くが一定の視点からの眺めを追求した「座観式」である。一方、栗林公園の作庭様式は、「池泉回遊式」と呼ばれ、広大な敷地に池泉や築山などを配し、園内を散策しながら移りゆく景観を楽しめる。一歩歩くごとに風景が変わる一歩一景の魅力があった。
栗林公園に行った後、高松から離れて鳴門の大塚国際美術館に行った。この美術館の特徴は何一つとして原画が展示されておらず、すべて陶板版画による複製品である。しかし、質感まで忠実に再現されおり、壁画なども空間まで忠実に再現されている。また現地では鑑賞制限があるスペースに入り込み、作品を間近でじっくりと鑑賞できるというのは、こちらの美術館でしかできない体験であり、遠景でしか見れないものを間近で見ることができるのは新鮮な体験であった。私が訪れたのが紅白歌合戦で米津玄師がこの美術館で歌ったこともあり多くの人が訪れていた。
彼が歌唱していたのはバチカンのシスティーナ礼拝堂の最後の審判の場で、多くの人が写真を撮っていた。バチカンでは下から見上げる形となるのだが、ここでは二階から水平に鑑賞することができた。
新国立美術館に次ぐ面積を誇っており、すべてを見回るだけであっという間に時が過ぎていた。
美術館にいる間、いいニュースを友人から聞くことになった。それは、高校時代の友人が1年間の浪人を経て、大学に合格したとの報告であった。友人の1年間の努力が報われ、涙ながらに報告してくれた友人の声に自分もうれしさでいっぱいであったと記憶している。
あれから3年が経ち、しばらくその友人とも会わぬままコロナにより、さらに会いにくくなった。
「絵を見なさい」と彼女は静かな声で言う。「私がそうしたのと同じように、いつも絵を見るのよ」
と言ったようにこの美術館の思い出が友人を思い出すトリガーになるのかもしれない。生きるにあたって、必ず失ってはいけない記憶は誰しもあると思う。しかし多忙を極めることによって、大切だった記憶さえも失ってしまうこともあるのかもしれない。だが、高校という青春を共に過ごした仲間と人生の玄冬になるまで語り合い、友人としていたいものである。