令和遣欧使節-②
バルセロナ、サングリア、そして次の街へ?
カタルーニャ独立派がシンボルたるサグラダファミリアに押し寄せ、物々しい雰囲気(もとより不審物を保有する私には警備員が帯同監視)
ツアー客も押し寄せはじめ、混雑を避けて次へと進む。
カサ・ミラへ移動することにした。ガウディのもうひとつの代表作であるこの建物も、当然のことながら観光スポットだ。ところが、到着してみると、なんとも意外なことにその日はカタルーニャ独立記念日だという。閉館している。

「なんだよ、それ…」と、相方は顔をしかめる。
私は心の中で思う。確かに、独立記念日を祝うのもわかるけど、なんで観光地まで祝日扱いなのか。確かに「独立記念日」だから、バルセロナでは何もかもがシャッター街になっている。いっそのこと、街全体を独立させてしまえばいいのではないだろうか。
シャッター街とアダルトショップ
「ま、そんなもんだよ」と、相方が私に言う。その言葉に深い意味を感じて、我々は市街をぶらつくことにした。しかし、そこには予想通り、シャッター街が広がっていた。

店の大半が閉まっている。その中で、唯一開いていたのがアダルトショップ。やれやれと思いながら(突然の村上春樹)も、私はどうしても目がいってしまった。
「なんだこれ…(恍惚)」

アダルトショップのショーウィンドウには、なぜか日本製のアダルトグッズが並べられている。その異様なジャポニズムに、思わずため息と感動が出る。何も言わず、私は相方に「こっち、行こう」(罠)と店内に促す。
相方も無言でついてくる。
奥に進むと過激なSMグッズしかない。いわば、前門の虎後門の狼である。宗教、民族さまざまな対立あれど、エロは世界を救う。
宇宙の真理にたどり着き、一度ホテル(意味深)へ荷物を預ける。
旅の疲れをベッドでとりつつ、当地の文化よろしくシエスタをとる。
夜のバルセロナ、サングリアに溺れる、翻弄され、人生を投げる
日が沈むと昼の沈黙に隠れた危なさはどこへゆかん。ステレオタイプなスペイン人が歌いながら、歩いている。
大学2年生の夏、学び舎で学んだことは何もなく、得たものは酒・煙草・麻雀だけで、加えて記憶と単位を喪失した我々は夜の街へかけ出る。
バルセロナの夜、ピンチョスは1ユーロ、ドリンクは4ユーロの安価さも相まって、ポケモン・ドラクエよろしく、酔っ払っても次の店に向かう。




だが、問題が起きる。10軒以上梯子酒をし、終着地ともいえる広場の落ち着いた屋外バーにて、突然、サングリアをぶちまけてしまったのだ。
レストランの店員が怒鳴る。
泥酔した相方は「汚れちゃった♥、俺(糞キモボイス)」
以前から酒乱傾向のある彼だが、異国の地で邪神へと昇華してしまった。
店員の怒りはどこ知れず、真っ白なパンツに染まる深紅(辛苦)のサングリアをぬぐい続けている。


これ以上の酔いはさらなる危険を招き入れると考え、愉しい?酒宴を切り上げ、泥酔した状態でホテルに戻ることになった。
酔いざまの聖堂巡り~完と未の間~
頭が割れるような痛みを感じた。昨日の夜、バルセロナの街を酔いしれたまま歩き回り、ピンチョスとサングリアを何杯も流し込んだ後の結果だ。部屋の薄暗い光が痛む頭に直接刺さり、まるで自分の頭の中でEDMが爆音で演奏されているかのようだった。
だが、どうしても出かけなければならない。何故なら、相方の高校時代の先輩がバルセロナに住んでおり、会うことになっていたからだ。

ふらふらと歩きながら、サンタ・エウラリア大聖堂を目指す。昨夜の記憶が断片的に蘇る中で、大聖堂の荘厳な姿が不意に頭に浮かんだ。彼はただの酔っ払いとして、無計画に飲み歩き、ふと立ち寄った場所がバルセロナのシンボル的存在であることに気づいた。
大聖堂に着いたとき、その壮大さに圧倒されると同時に、酔いが少しだけ冷めていった。大きな石柱、精緻な彫刻、そして色鮮やかなステンドグラスが織り成す光景が、まるで時を越えてここに存在し続けるような神秘的な雰囲気を醸し出していた。サンタ・エウラリア大聖堂は、何世代もの人々が手を加え、修復を繰り返し、完成を見たものだ。その建物には、歴史がしっかりと刻まれており、何かしらの秩序と計画が見て取れる。


美しさに感動しつつも、自分自身と比べてみて、どこか滑稽な気持ちを抱かずにはいられなかった。私の大学生活は、計画性に欠けている。無計画に友達と遊び、急に思い立って旅行を決めて、後で問題に直面しては焦っている。その場その場での「今」を大事にしているが、目の前にある「未来」には何も考えずに進んでいる自分が、どこか不安定に感じるのだ。


一方で、サグラダ・ファミリアを思い出すと、その未完成の姿に健太は妙に親近感を感じた。あの大聖堂は、未だに建設が続いている。ガウディが亡くなってからも、数世代の建築家たちがそのビジョンを引き継ぎ、何百年もかけて完成を目指している。サグラダ・ファミリアの建設は、決して一度きりの計画で終わるものではなく、むしろその過程こそが価値あるものとされている。その未完成の美しさは、時間をかけて育て上げられ、完成を待ち望む人々の手によって紡がれている。
二つの聖堂の違いを感じながら、自分の生活にも重ね合わせてみた。サンタ・エウラリア大聖堂のように、秩序立てられ、計画的に進められた物事が美しさを形作るのか、それともサグラダ・ファミリアのように、完成を目指してあくまで進化を続け、未完成であることの中に美を見出すのか。どちらが良いのだろう?
その答えはわからない。しかし、ふと、どちらの聖堂にも共通するものがあることに気づく。それは、時間と手間がかかり、試行錯誤を繰り返すことで、最終的にはそれが形になるということだ。サンタ・エウラリア大聖堂は完成された美しさを持っているが、それを達成するまでには何世代もの人々が関わり、時間をかけて積み重ねてきた。サグラダ・ファミリアも、未完成でありながらその過程にこそ価値があるのだ。
聖堂を後にした後、ふらふらと歩きながら次の目的地、グエル公園へ向かうことに決めた。
苛烈なスペインの夏の日差しの下で公園への長い坂は二日酔いの2人は辛い。


ようやく登り詰めると、またしても観光客で賑わっていた。入口付近は特に混雑していて、どうせならと思って館内に入ろうと試みたが、案内板には「予約制」の文字が。中を見学するには事前に予約をしなければならず、今の時間ではどうしても入れないことが分かった。

公園の周りを歩きながら、ガウディの建築に目を向けた。色とりどりのタイルが並べられたベンチや、歪んだ形の建物を見ても、どこかすっきりとしない気持ちが胸に広がる。ガウディの建築の魅力は、何となく理解できそうでできなかった。独特な曲線や色使いは確かに目を引くが、どうしてもその美しさが腑に落ちない。
「うーん、この(痴呆)」
公園内を歩き回ったが、結局、ガウディの建築の魅力に触れることはできなかった。むしろ、心が奪われたのは、公園から見渡せるバルセロナの市街の美しさだった。遠くに広がる街並み、青空を背景にした海、そして遠くに見える山々が、彼の視線を引きつけて離さなかった。バルセロナの街全体が、まるで絵のように美しく広がっており、何か不思議な力で心が満たされていくようだった。

ガウディの建築を理解しようとする気持ちは一瞬で消え、代わりに目の前に広がる景色の美しさに完全に心を奪われていた。建築の細部やデザインの理解を超えて、バルセロナが持つその全体的なエネルギー、空気感が最も印象的だった。
結局、グエル公園のガウディの作品にはあまり感動を覚えなかったが、その代わりに彼はこの街そのものに、計画や意図を超えた美しさを感じ取ることができた。それはまるで、未完成でありながらも進化し続けるサグラダ・ファミリアのように、完成形を目指すことなく、無限の魅力を持ち続けるバルセロナの姿に通じているように思えた。
夕暮れ時のバルセロナを歩きながら、ふと立ち止まった。自分の中で何かが変わっていた。バルセロナの街そのものに心を奪われて、ガウディの作品のように複雑で奇抜なものに対する期待が、どこかで崩れてしまった気がした。それでも、街を歩く中で感じた解放感と、何も計画せずにただ流れに身を任せる自分を少しだけ誇りに思った。
そもそも、バルセロナからマドリードに行く予定だった。だが、台風で旅程が短くなったため、予定を変更してモロッコに行くことにしたのだ。
マドリードでの予定は完全に忘れ去られ、代わりにアフリカ大陸へと飛び立った。未知の場所、未知の文化に身を投じることで、また新たな感覚を味わうことができるだろうという予感が、待ち受けている。
期待に胸を膨らませながら、飛行機に乗り込んだ。
だが、この時点では、旅の真の恐ろしさを迎えるとは思いもしなかったのであった。

三輪山の彼方へ~禅と神話の交差点~

永平寺を出て、その足で三輪山に向かった。純粋な景色に心を離していると、流し続ける人間の歩みに思いを駆り立てざるを得なかった。

永平寺の高集的な雰囲気から、三輪山の誓士的な野性への転換を考えていた。永平寺の禪惚の心を、神達的な三輪山の謎と突合させたいという欲望は、私を始めていた。
はじめ大神神社に立ち寄った。私は大神神社の拜殿に歩んだ。この神社の拜殿は、歩きつく谷の山路に置かれた野性と共に、大物主神を従える人々の歴史を呈示している。歩んで拜殿に近づくと、そこから見下ろした奈良平野の雄大さに、自然と人間の十分な結びつきを感じさせられた。そして、不思議な五感に馴染むように、知らず知らずのうちに失いた自分の一部をみつけたのである。



大物主神についての話は絶えることなく伝えられている。大国主神が小御名神と共に国造りをしていた時、小御名神は小囲の国へさっと去ってしまった。大国主神が「この後、どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、一柄の神が海原を照らして出現し「私を大和国の東の山の上に祭れば国造りに協力する」と言った。此の神こそが、御輸山に鎮座している大物主神であるという。
駅に戻り、僅かに構えるタクシーを呼び、私は遊客の意図を大抱にしているたしかな士を調達した。そのタクシーの運転手は「三輪山を一朗に見ながら、巨大な鳥居を上から下まで視せられる空間をお探しですか?」と柔らかい関西弁にて、微笑を添えて問いかけた。
タクシーは和らぐ空気の中、田花の赤い埃身に有天に駆けていった。そして、平和な田舎の張広い空間が見えてくると、都市には広告されないような「回復の基盤」がここにあることに私は突然気付かされた。
地点にたどり着くと、青々とした田を背景にした鳥居が立ち現れた。まるで、かつて小古の紀保で「少彦名神が常世の国へ去くために通った」と伝えられる田を思わせるような景色だった。

和やかな田園風景が広がる中、タクシーは道を進み、運転手は突然「ここが一番のスポットです」と車を停めた。私はタクシーを降り、目の前に広がる光景に息を飲んだ。三輪山が悠然とそびえ、その麓に立つ巨大な鳥居が青空に映えていた。その鳥居の向こうには、緑に輝く田んぼがどこまでも続き、その景色はまるで、少彦名神が常世の国へ去る前の豊穣な世界そのものだった。
「ここが常世と現世を繋ぐ場所のようだ」と心の中で呟いた。少彦名神が去った後も、この国の人々は農耕の神の教えを胸に刻み、田畑を耕し続けてきた。だが今、その田園風景の中には、過疎化の影が忍び寄っている。人々が去り、静寂が支配するこの土地に、神々の気配だけが微かに残されているようだった。
その後、私は運転手へ礼を言い、桜井線の電車に乗り込んだ。列車は古都奈良へと向かう道をゆっくりと進む。窓から見える三輪山の景色が徐々に遠ざかり、私はその背後に隠された神々の物語と、この国の根源的な精神について思いを巡らせた。
「日本人の心の奥底には、まだ神々が宿っているのだろうか?」と自問自答しながら、私はその土地の記憶と共に、心に憧憬を抱いて奈良へと向かった。

令和遣欧使節-①

台風直撃、成田空港での大混乱
渡航の前日、私はすでに準備を整え、明日のフライトに備えて眠りに就くはずだった。しかし、運命は私に酷な試練を与えた。その夜、台風が直撃するというニュースが流れたのだ。すぐに成田空港に向かうための電車やバスがすべて運休になったという知らせが入り、私は心底焦った。
空港までどうしても行かなければならない。タクシーを呼ぶことにしたが、そのときすでに道は大渋滞していた。台風の影響で、すべての人々が一斉にタクシーを求め、みんなが同じ考えを持っているのだ。タクシーを見つけることができても、道は動かず、進まない。
その結果、タクシー代は驚愕の36570円となり、まったく進まない渋滞の中で空港に到着したのは、すでにフライトの出発時刻を過ぎていた。結局、飛行機には乗り遅れた。

初めての空港泊、振替バトル
「もうだめだ、最悪だよ」と、タカシが呟く。私も同じ気持ちだ。最初の試練をクリアできなかった。だが、今更諦めるわけにはいかない。
翌朝、私は航空会社に振替を求めて激しい交渉を開始した。無理だと言われながらも、必死に食い下がる。心の中では「こんなことで諦めるわけにはいかない」と叫んでいた。
そして、運命の瞬間が訪れた。なんと、最終締切10分前に搭乗予定の顧客の貨物が積載できず、空席が発生したのだ。空席ができたおかげで、私はようやくバルセロナ行きの便に搭乗することができた。絶望的な状況から、奇跡的に希望が見えた瞬間だった。
「ありがとう、神様…!」私は心の中で呟いた。希望がまだ残っていると感じた瞬間だった。

深夜、アブダビを出発した私たちの飛行機は、ようやくバルセロナへと向かう。時差のせいで、明け方にバルセロナに到着した。眠気に耐えながら、空港から外に出ると、そこには空気がひんやりとしたバルセロナの街並みが広がっていた。
しかし、街を歩いてみると、すべてが異様に静かだった。ほとんどの店が閉まっていて、まるで安息日のような雰囲気だ。カタルーニャ州で独立運動を祝う祭りが行われているため、ほとんどの店が休業しているという。何もできず、ただ街を歩くことになった。
「どうすんだよ、これ…」とタカシが呟く。私も同感だった。だが、せっかく来たバルセロナ、観光くらいはしたい。サグラダファミリアは開いているという情報があったので、急いで向かうことにした。
覚○剤取締法疑惑@サグラダ・ファミリア
サグラダファミリアに到着した私たちは、ようやく観光を始めようとする。しかし、ここでも新たな試練が待っていた。手荷物検査で、私のバックパックに入れていた日本から持参した「味の素」が引っかかったのだ。

「これは何だ?」警備員が手に取ったのは、可愛らしいパンダの容器に入った白い結晶片。見た目はどう見ても普通の調味料だが、警備員はそれを覚醒剤か何かだと勘違いしていた。
「ち、違います!これは調味料です!」と必死に英語とスペイン語で説明するが、警備員は一向に納得しない。
もはや、これで終わりかと思った。海外でお縄にかけられるとは思わなかった。すべてを諦めかけたその瞬間、神が再び私に微笑んだ。
「これは調味料だよ」と、別の警備員がやってきて、私の味の素を見て説明してくれたのだ。まるで天使のように、その警備員は詳しく説明し、最終的に私は入場を許された。
サグラダファミリアは1882年から着工され、いまだに完成していない。ガウディの死後の1936年に始まったスペイン内戦により、ガウディが残した設計図や模型、ガウディの構想に基づき弟子たちが作成した資料のほとんどが散逸した。これによりガウディの構想を完全に実現することが不可能となり、サグラダ・ファミリアの建造を続けるべきかという議論があったが、職人による口伝えや、外観の大まかなデッサンなど残されたわずかな資料を元に、その時代の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。


こちらは受難のファサードと呼ばれ、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。
かつては、完成まで300年かかると言われていたが、スペインの経済成長や拝観料収入により進捗が加速している。さらに、3D構造解析技術や3Dプリンタによるシミュレーションによる成果が著しく。2026年に完成とかつての300年から144年で完成することになる。

教会内部は木漏れ日が差し込むような巨大な森を想像し設計され、明るく色鮮やかな空間で陽光だけで、これほどまで明るいのかと非常に驚いた。


サグラダ・ファミリアは民族のシンボル、地域のランドマークでもあるため、しばしば教会付近がカタルーニャ独立運動のデモ隊が教会に集結していた。
こうして、数々の困難を乗り越えた私たちはようやくサグラダファミリアに足を踏み入れることができた。最初は、すべてがうまくいかなかったが、どうにかバルセロナにたどり着き、観光を楽しむことができた。
人生はこんなにも予測できないものだと改めて思った。無計画に、ただ出発しただけの旅が、こんなにも試練を伴うものになるとは。しかし、それでも、どんな困難にも希望はあることを学んだ。何かを得るためには、どんな苦労も乗り越えなければならない。神は見捨てていなかった。そして、これから始まるバルセロナでの冒険が、さらに私に多くの教訓を与えてくれることを確信していた。
禅って全然わかりまセン。

白川郷を後にし、その日の夜遅く福井へ到着した。福井へ来た目的は、ほぼ一つであり、永平寺にて座禅を体験することであった。
翌朝、永平寺に向かう前に、せっかくなので東尋坊を観光することにした。

雄島

早朝であったため、バスの運転手の方から自殺志願者と間違われ、ずっと話しかけられた。

東尋坊の名の由来は、雄島にある大湊神社には下記のような由来を紹介していた。
平泉寺に暴虐非道で皆を困らせていた東尋坊という僧侶がいた。また、東尋坊は美しい姫に心を奪われ、恋敵の真柄覚念という僧と互いに嫌悪し合っていた。ある日、寺の僧たちで崖にて酒宴を行い、東尋坊は酔いのあまり眠ってしまった。日頃から手を焼いていた僧たち及び真柄覚念は、ここぞとばかりに岸壁から突き落とした。それからこの崖は東尋坊と呼ばれるにいたる。
自殺の名所として名高いが、現在ではポケモンGOでレアポケモンが多く出るスポットとして、ポケモン目当ての訪問者を増やし、自殺防止に繋げているようだ。

東尋坊近くの食堂にて朝ごはん 味噌汁が染みる。


先程までいた東尋坊とは異なり、緑に囲まれた境内は静謐さを保っていた。


永平寺は曹洞宗の開祖、道元によって開山された。道元は幼少期に父母を亡くし、14歳で比叡山に登り、仏門へ入門した。しかし、比叡山にて天台宗の教えである本覚思想や仏性を人は生まれながら持っているにもかかわらず、厳しい修行を得なければ悟りを得られないのかに疑問を抱いた。そこで、臨済宗の宗祖である栄西の建仁寺入るも、答えは得ず宋に渡り、修行を行った。宋ではひたすらに座禅に打ち込む修行であり、ここで「只管打座」の境地に至った。帰国後、京に興聖寺を建立し、説法と著述に勤しむが、かつて修行した比叡山からの激しい迫害を受けた。
そこで、信徒の一人である越前の土豪の請いから越前へ下り、永平寺を開山した。


座禅ルームにて
永平寺は現在でも修行する僧侶が数多くおり、高野山同様に観光地である以上に修行の地であることを体感することができた。
永平寺を訪れてから、道元の考えについて資料を集めることにした。
そこで、和辻哲郎による「日本精神史研究」の「沙門道元」を基に、道元について考えると、道元の言説は永遠なる価値の顕現を中心とし、世間的価値の破壊はその出発点でなくてはならないことに帰着するのではと考えた。
そして、この価値の破壊を道元は仏教の伝統に従って「無常を観ずる」という表語に現わした。
世間の無常は思索の問題ではない、現前の事実である。朝に生まれたものが夕に死ぬ。昨日見た人が今日はない。我々自身も今夜重病にかかりあるいは盗賊に殺されるかもわからない。もしこの生命が我々の有する唯一の価値であるならば、我々の存在は価値なきに等しい。(随聞記第二)
この言葉は当時の生活不安を背景として見れば、最も直接な実感であるが、それが人生観の根拠として置かれたとなると、それはもはや単なる感傷ではありえないだろう。それは人間のあらゆる思想、制度、努力等に対する弾劾である。富や名声といったものを得ようとする一切の活動を拒否することを意味している。従って人々の物質的な効用を増進する一切の努力は生まれず、反対に人は遁世することを意味しているのではないだろうか。
しかし、現実生活の否定、死後(浄土)の生活の希求を意味するのではない。否定しているのはただ物質的な効用、または名利の念を内容とする生活であって、偉大なる人類的価値を目ざすところの超個人的な生活そのものではない。この意味で此岸と彼岸との別は現世と死後との別ではないであろう。彼にとって、死後と生前とを問わず、真理に入れる生活が彼岸の生活なのである。生前と死後とを問わず、迷執に囚われた生活は此岸の生活である。従って理想の生をこの世からあの世へ移すことは無意義であると唱えている。理想の生はここに直ちに実現さるべきものとして存在するのである。そのため、現世の価値の破壊は直下にこの生を実現し得んがための価値倒換にほかならないのであろう。
この価値倒換によって永遠なる価値への真実の「要求」が生まれる。そうしてこの要求によってのみ真理への証入は可能である。
道元は以下のように記している。
仏の真理は何人の前にも開かれている。天分の貧富、才能の利鈍というごときことはここには問題でない。しかも人がそれを得ないのは何ゆえであるか。得ようとしないからである。要求が切実でないからである。要求さえ切実であるならば、下智劣根を問わず、痴愚悪人を論ぜず、必ず仏の真理は獲得し得られる。だから道に志すものは第一にこの要求を切実にしなくてはならない。世人の重き宝を盗もうと思い、強い敵を打たんと思い、絶世の美人を得ようと思うものは、行住坐臥が、その事の実現のために心を砕いている。いわんや生死の輪廻を切る一大事が、生温い心で獲られるわけはない。(随聞記第二)
そこで、すでに要求があり、精進の意志がある。ここにおいて問題となるのは学修の方法でなくてはならないとした。
その方法は第一に「行」である。「行」とはあらゆる旧見、吾我の判別、吾我の意欲を捨て、仏祖の言動に従うことである。すなわち世間的価値の一切を放擲して、虚心なる仏祖の模倣者となることである。つまり、例えあらゆる経典を読破し理解しても、学者としての名誉を得ようとするごとき名利の念に動いている時には、その理解は真実の体得ではない。
道元は
もし行者が、この事は悪事であるから人が悪く思うだろうと考えてその事をしない、あるいは自分がこの事をすれば人が仏法者と思うだろうと考えてある善行をする、というような場合には、それは世情である。しかしまた世人を顧慮しないことを見せるために、ほしいままに心に任せて悪事をすれば、それは単純に我執であり悪心である。行者はこの種の世情悪心を忘れて、ただ専心に仏法のために行ずべきである(同上第二)。遁世とは世人の情を心にかけないことにほかならぬ。世間の人がいかに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の行履に従って行ずれば、そこに仏弟子の道がある(同上第三)。仏道に入るには、わが心に善悪を分けて善しと思い悪しと思うことを捨て、己れが都合好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言語行履に従うべきである。苦しくとも仏祖の行履であれば行なわなくてはならない。行ないたくても仏祖の行履になければ行なってはならない。かくして初めて新しい真理の世界が開けてくるのである(同上第二)。
この「仏祖への盲従」が道元の言葉には最も著しいと感じた。もとより彼はこの行の中核として専心打坐を唱道する。しかし、それは、打坐が仏祖自身の修行法であり、またその直伝の道だからであろう。かくて「仏祖の模倣」は彼の修行法の根底に横たわっている。戒律を守るのも仏祖の家風だからである。難行工夫も仏祖の行履だからである。もし戒律を守らず難行を避くるならば、それは「仏の真理」への修行法とは言えない。
この修行の態度は自力証入の意味を厳密に規定した。
ここには「たまたま生を人身に受けた」現実の生活に対する力強い信頼がある。この生のゆえに我々は永遠の価値をつかむこともできるのである。我々は、自己を空して仏祖に乗り移られることを欲し、乗り移られた時に燦然として輝き出すものが本来自己の内にあった永遠の生であるとしても、とにかく我々は自力をもってそこに達するのではない。我々がなし得、またなさざるべからざることは、ただ自己を空して真理を要求することに過ぎない。すなわち修行の態度としては「自らの力」の信仰ではない。
自力他力の考え方の相違はむしろ「自己を空する」ことの意味にかかっているといえよう。他力の信仰においては、自己を空するとは自分の執着さえも自ら脱離し得ない自己の無力を悟ることである。この無力の自覚のゆえに煩悩の我々にも絶対の力が乗り移る。従って我々の行なう行も善も、自ら行なうのではなくして絶対の力が我々の内に動くのである。それに反して道元の道は、自ら執着を脱離し得べきを信じ、またそれを要求した。すなわち世間における価値の無意義さを感じ、永遠の価値の追求に身を投ずることを、自らの責任においてなすべしと命じた。
ここに著しい相違が見られるのであると考える。前者においては、たとえば死に対する恐怖を離脱せよとは言わない。死後に浄土の永遠の安楽があるにかかわらず人が死を恐れるのは、「煩悩」のせいである。もしこの恐怖がなく死を急ぐ心持ちがあるならば、それは「煩悩」がないのであって、人としてはかえって不自然であると捉えている。阿弥陀の慈悲は人が愚かにもこの煩悩に悩まされているゆえに一層強く人を抱くのである。この考え方からすれば、病といった苦しみに悩む人が「肉体の健康」を求めて阿弥陀にすがるのは、きわめて自然の事と認めざるを得ない。しかし道元の考えにあっては身命への執着は最も許すべきでないことなのであろう。肉体的価値を得ようとするために永遠の価値に呼び掛けるようなことは、あってはならないとしている。死の恐怖に打ち勝ったものでなくては、仏の真理へ身を投げかけたとは言えないとした。念仏宗は肉体のために弥陀にすがることを是認し、道元は真理のために肉体を捨てるすることを要求する。しかも前者は解脱をただ死後の生に置き、後者は今の生においてそれを実現しようとする。つまり、自己の救済に重心を置き、他は仏の真理の顕現に重心を置く。自己放擲という点ではむしろ後者の方が徹底的であると言えよう。
道元自身は修行の目的として、真理王国の建設を目的とした。「仏法のための仏法修行」この覚悟が日本人たる道元において体現されたことは、驚きであった。真理それ自身のために真理を求めることは、必ずしもギリシア文化のみの特性ではなく、真理において最高の価値を認めるものは、究極の目的を認めるものは、必ずこの境地に達しなくてはならない。そうして道元はそこに達したのである。彼にとって仏法の修行は他のある物を得んがための手段ではなかった。
「皆無所得」これ彼の言説を貫通して響く力強い主張であろう。仏法は人生のためのものでない。人生が仏法のためのものである。仏法は国家のためのものでない。国家は仏法のためにあるのであると考えたのであろう。
あれこれ考えてみたものの、ここまで物質に囲まれ育った自分には道元のように捨てることはできないと断言できよう。
高野聖

その年の7月の中旬まで梅雨が長く続き、このままでは冷夏ではとニュースを騒がせていた。
下旬になると梅雨も明け、途端に夏の訪れを身をもって味わうことになった。定期試験も終わり、夏休みが到来した私は、日本の夏を体感するべく、飛騨へ向かうことにした。
深夜バスで名古屋に到着し、岐阜を経由して白川郷へのバスターミナル高山へと向かった。

高山へ向かう高山本線は木曽川や飛騨川、神通川といった河川に沿って通っており、車窓からは飛水峡、中山七里といった名所を見ることができた。

鈍行で行ったため、名古屋から3時間半もかかったが、高山も非常に美しい町であった。もともと、高山は豊富な山林・鉱山資源に目を付けた幕府により直轄領であった。天領の役所であった高山陣屋を中心として、今もなお江戸時代の街並みを残している。



高山から白川郷は再度バスで向かうことになるが、全長11㎞にもなる長大トンネル「飛騨トンネル」を抜けると、日本人の考える里山を体現したかのような風景が広がっていた。

白川郷を見下ろす荻町城跡展望台にて



白川郷といえば合掌造りであるが、いつ始められたかは定かではないそうだ。また、合掌造りという言葉自体も1930年ごろにフィールドワークを行った研究者によって呼ばれ始めたといわれる。(日本国政府・文化庁 (1994) 「合掌造り家屋の成立時期」より)
現在では水田が広がっているが、戦後に転作されたものがほとんどを占めており、もともとは焼き畑による稗、粟、蕎麦といった雑穀、そして養蚕のための桑が占めていた。稲作に不向きな土地柄であり、その分家内工業が発達し、家屋の大型化、多層化が進んだと考えれる。
合掌造りの屋根はいずれも妻を南北に向けている。これは
- 冬場の融雪と茅葺の乾燥
- 南北に細長い谷に集落があるため冬場の強風に対して、受ける面積の縮小
- 夏場は屋根裏の窓を開けて風通しを良くし、蚕が熱でやられないにする
といった目的があったと考えられている。
(水村光男 (2002) 『オールカラー完全版 世界遺産第7巻 - 日本・オセアニア』 講談社〈講談社+α文庫〉)



美しい里山を散策しながらも、一種の違和感そして不気味さを抱き始めた。それは、世界遺産に登録された場の宿命ともいえる観光地化により、生活感の喪失を感じたためではないかと考える。
かくいう私も観光客として訪れているため、とやかく言うことではないと思うが、この違和感、不気味さについて考えていく。
まず、不気味なものについてフロイトは、かつて親しくなじんていたものが個体発生的にも系統発生的にも文明化の過程でいったん抑圧された後、何らかの契機に不意に回帰したものと捉え、不気味さとは、それに直面した文明人が感じる不安や恐怖であると論じた。(ジグムント・フロイト 須藤 訓任/藤野 寛【訳】 フロイト全集〈17〉1919-1922年―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学(2006))
テリー・キャッスルはこの不気味なものの発生条件となる知のモーメントを18世紀の啓蒙主義に求め、不気味なものが啓蒙期の歴史的条件の下で「発明」されたと論じた。近代及び現代は啓蒙的知が世界を説明する原理として内面化されおり、不気味なものは文明の光が落とした影として生み出され、近代化、現代化の主体である我々を恐怖に陥れる。では、この白川郷という美しい里山に私が感じた不気味さの正体は何であろうか。
これまで人間は自然と共存する形で生存しており、自然と慣れ親しんでいたはずである。しかし、文明化と共に自然を切り開き共存ではなく、利用するという形へ変容していった。そこで、旧来の里山といった自然と人工の調和ともいえる環境を訪れるも、スマートフォンを所有し自家用車で訪れる観光客、白川郷を囲むようにある高速道路といった現代技術があることで、かえって里山が現代とは切り離された異界のように感じ、不気味さを感じているのではないかと私は考える。
美しき里山と世界遺産による観光地化の弊害を目の当たりにし、あれこれ考えながら再度バスにて福井へ向かうことにした...

海辺のダレカ

「それで、お金のことはなんとかなったんだね?」とカラスと呼ばれる少年は言う。いくぶんのっそりとした、いつものしゃべりかただ。深い眠りから目覚めたばかりで、口の筋肉が重くてまだうまく動かないときのような。でもそれはそぶりみたいなもので、じっさいには隅から隅まで目覚めている。いつもと同じように。 村上春樹 『海辺のカフカ』
大学1年の春休みのことであった———。
秋学期の成績が発表され、般教1つ以外は単位取得。素晴らしい出来である。お金がないので、また青春18きっぷで帰省することになった。
青春18きっぷ・・・
そう、
君はこれから世界でいちばんタフな大学1年生にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。(カラスの少年感)
はい、地獄の青春18きっぷ旅行のスタートである。いつものように4時半の始発で東京に向かい、長き長き東海道線を乗り継いでいく・・・
そんな退屈な東海道線のお供は
デン!!!
銀色のヤツ!!!(地獄)

はい、敗北者の飲み物、世相を反映した日本の闇の体現者、酒税法に苛め抜かれたメーカーの怨念の最高傑作であるスト缶である。もう東海道線なんて青春18きっぷで何往復もしていたら飽きた。本を読むにも山陽本線までに読み切りそうなので仕方ないのである。こんなゴミを胃に流し込んでいく。
当初は京都または大阪で宿泊する予定であったが、どうしても澄んだ出汁のうどんを食したくなってしまった。
うどんの総本山讃岐国へいざ参らん!!

わーい四国に上陸するぞぉ(小並感)
やっと瀬戸大橋である。いやぁ長かった。本当に長かった。4:30すぎに出発したの高松に到着したのは夕方18:00すぎである。駅前のホテルに着き、長旅でボロボロの私の体は優しく労わってくれるうどんよりも酒しかない!!!(本末転倒)というわけで本店は確か丸亀だが骨付き鳥の名店一鶴に行くことにした。

いやぁうまい!!!
酒しか勝たん!!
骨付き鳥は親鳥と雛鳥を選ぶことができたのだが、『親鳥』はしっかり噛みごたえがあり、噛むほどに味わい深い肉の旨味が染み渡る。柔らかい鶏肉の『雛鳥』は柔らかく優しい味わいと共に親鳥以上に脂が口に広がっていく。味付けは胡椒が効いたパンチのある味で、このスパイシーさがビールを流し込まずにはいられない。本当は夜の高松をもっと観光したかったのだが疲労困憊かつ泥酔の私には無理でした。ごめんなさい。
翌朝高松観光とともにうどん巡りをした。
ここで
【悲報】うどんのために来たのに一枚もうどんの写真が残っていない模様(´;ω;`)
本当に申し訳ない。いや全部美味しかった。でも一枚も写真が残っていない。全部で6軒ほど行ったのだが一枚もないなんて。

気を取り直して高松観光にでも触れていくことにする。高松を観光したと言いつつも、一か所、栗林公園しか行っていないのだが…
栗林公園はもともとはこの地を治めていた生駒氏の家臣の屋敷が築かれたことに始まり、生駒氏が改易された後、高松藩初代藩主、松平頼重が隠居後の屋敷を建てた。その後飢饉対策の救済事業で庭園の土木工事を行い、拡張を進め頼重が屋敷を構えて約100年たった1745年に現在の姿へと整備された。この庭園は国の特別名勝に指定されているが、特別名勝の庭園の多くが一定の視点からの眺めを追求した「座観式」である。一方、栗林公園の作庭様式は、「池泉回遊式」と呼ばれ、広大な敷地に池泉や築山などを配し、園内を散策しながら移りゆく景観を楽しめる。一歩歩くごとに風景が変わる一歩一景の魅力があった。








栗林公園に行った後、高松から離れて鳴門の大塚国際美術館に行った。この美術館の特徴は何一つとして原画が展示されておらず、すべて陶板版画による複製品である。しかし、質感まで忠実に再現されおり、壁画なども空間まで忠実に再現されている。また現地では鑑賞制限があるスペースに入り込み、作品を間近でじっくりと鑑賞できるというのは、こちらの美術館でしかできない体験であり、遠景でしか見れないものを間近で見ることができるのは新鮮な体験であった。私が訪れたのが紅白歌合戦で米津玄師がこの美術館で歌ったこともあり多くの人が訪れていた。

彼が歌唱していたのはバチカンのシスティーナ礼拝堂の最後の審判の場で、多くの人が写真を撮っていた。バチカンでは下から見上げる形となるのだが、ここでは二階から水平に鑑賞することができた。











新国立美術館に次ぐ面積を誇っており、すべてを見回るだけであっという間に時が過ぎていた。
美術館にいる間、いいニュースを友人から聞くことになった。それは、高校時代の友人が1年間の浪人を経て、大学に合格したとの報告であった。友人の1年間の努力が報われ、涙ながらに報告してくれた友人の声に自分もうれしさでいっぱいであったと記憶している。
あれから3年が経ち、しばらくその友人とも会わぬままコロナにより、さらに会いにくくなった。
「絵を見なさい」と彼女は静かな声で言う。「私がそうしたのと同じように、いつも絵を見るのよ」
と言ったようにこの美術館の思い出が友人を思い出すトリガーになるのかもしれない。生きるにあたって、必ず失ってはいけない記憶は誰しもあると思う。しかし多忙を極めることによって、大切だった記憶さえも失ってしまうこともあるのかもしれない。だが、高校という青春を共に過ごした仲間と人生の玄冬になるまで語り合い、友人としていたいものである。
寅月、白に會ふ。

2020年の幕開け————。
ごめん、元旦には書けませんでした。いま、実家にいます。昨年の正月に訪れた会津若松の記事を私は作っています。……本当は、面倒臭いけれど、でも今はもう少しだけ、知らないふりをします。私の作るこの記事も、きっといつか誰かの青春を乗せ...
ません。
誰の青春も乗せません。
ただのオナニー自己満足。
改めまして、新年あけましておめでとうございます。謹んで新春をお祝い申し上げます。旧年からこんなくそブログを読んでくださり、誠にありがとうございます。今年も頑張って更新して行きたいと思います。
じゃあ、始めてゆきますか
元旦に特典航空券で実家から帰った私は一人でダラダラと過ごしていた。気づくと明日から大学―――――
死ね。
ということで、余った青春18きっぷ消化のため、まあ八重の桜とかあったので適当な気持ちで会津若松に行くことにした。
翌朝、1限に行くための列車より乗れる始発に乗り、会津若松を目指した。会津若松までは仙台同様7時間ほどかかる。いつも通り、宇都宮線を爆睡して黒磯、白河と乗り継ぎ、郡山で磐越西で会津若松へとたどり着いた。駅に降り立って一言...

寒すぎる(n回目)
寒さに弱い私は震えながら会津へと降り立った。


昼近くになっていたので観光案内所でお勧めの食事処を聞くことにした。案内所からは折角会津に来たなら渋川問屋行くとよいと言われたのでそこに行くことにした。
どうやら渋川問屋は会津の郷土料理を楽しめることができるようだ。駅からしばらく歩くと言われた店に着いたが、これである。

学生が入れる店なのか?
さすがに驚いた。こんな歴史的建造物だとはよもや思いもよらなかった。どうやら渋川問屋は120年以上もの歴史をもつ元海産物問屋で現在は食事処と宿泊施設を兼ねているようだ。


店内は明治時代に建築された蔵や大正時代の木造家屋などの建物を生かし配置も当時のままで、会津商家の大店も面影をとどめている。
店に入ると女将さんから勧められるがまま会津の郷土料理コースを頼むことにした。


会津には古来より、その気候風土や歴史、生活様式を背景に、地域に根差した多くの郷土、伝統食が存在しているようだ。盆地や山間地からなる会津は、千葉や愛知がすっぽり収まるほど広大な地域であるため、地域内でも多様な食形態がみられたようだ。盆地では主に米作であり、一方山間地域では、山菜や沢の魚介、獣肉などによる食形態が主流だったようだ。地域全体を通して豪雪に見舞われる冬には、漬物などの保存食や発行食文化も広がった。こうした自給型の食文化がある一方で、海から遠い地域にも拘わらず、江戸時代北前船の発展とともに新潟を経由してもたらされた海産物と地場生産物との組み合わせにより生まれた乾物料理は会津の食文化に大きな役割を果たした。
一番代表的な会津料理として、まず「こづゆ」を挙げる。こづゆは武家料理や庶民のごちそうとして広まり、現在でも正月や冠婚葬祭などハレの席で、必ず振る舞われる郷土料理である。簡単にいえば雑煮にあたるもので乾物の帆立貝柱を用いているのが特徴だ。次は棒鱈の甘煮である。これも北前船の発展により生まれたもので鱈の素干しを水で戻し、醤油や砂糖で煮たものだ。これも古くは正月や祭りのごちそうとして提供されたものだが、同様の料理は京都でも見られ、ここにも北前船で結ばれた関係だと推測される。どの料理も非常に美味しく、だしのうまみを非常に感じた。



食後、市街を散策していると造り酒屋があったので入ることにした。ここで初めて知ったのだが、福島県は7年連続日本酒の品評会で金賞を取り続けている日本酒の名産地であった。私が訪れたのは末廣酒造で嘉永3(1850)年に創業し、明治時代に福島県で初めて杜氏による酒造りを実現。大正時代には山廃造りの試験醸造も行い、現在に伝承されている老舗だ。ただ日本酒を見るだけでよかったのだが、心優しいことに酒蔵見学までさせてもらった。日本建築では珍しい高い吹き抜けの威風堂々とした造りであった。一階は仕込みを見学させてもらったが、二階は昔の生活空間が残されており、大広間には会津藩主松平容保や最後の将軍徳川慶喜の書を見ることができた。さらには、末廣の親類に当たる小林栄を父と仰いだ、医聖・野口英世がこの嘉永蔵で実際に書いた書や、その時撮影した写真などがあった。見学後、試飲コーナーでは末廣酒造のお酒が勢揃いしていた。昔ながらの製法を頑なに守り続けている「伝承山廃 純米末廣」や「伝承きもと 純米末廣」、鑑評会で金賞に輝いた原酒を詰めた「大吟醸 玄宰」、納得のいくまで熟成させる「大吟醸 舞」話題の微発泡酒「ぷちぷち」など末廣酒造を代表する酒の他にも10種類ほど飲ませてもらった。お土産に猪口と徳利と日本酒を買って後にした。
ほろ酔いの中次は鶴ヶ城を目指した。鶴ヶ城、別名会津若松城は会津藩の城で蒲生や加藤など様々な大名を経て、徳川家光の庶弟、保科正之が入封し、松平家が受け継いでゆく。この城といえば戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争である。会津勢の立て篭もるこの城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。1か月の間持ちこたえたが、降伏し開城した。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しかったが修復は行われず、しばらく放置された後、解体された。現在の天守は戦後再建されたもので、博物館として公開されている。


城は赤瓦に積もる雪も相まって、非常に美しいものであった。そしておやつがてら、城内の本丸にある茶室に行くことにした。この茶室、名は「麟閣」といい千利休が自害したのち、弟子であった蒲生氏郷が千利休の子・少庵を会津に招いてかくまい、少庵がその恩義に報いて建てたといわれる茶室である。戊辰戦争の後、移築・保存されていましたが、平成2年に城内へ戻された。


城を出て、飯盛山へと向かった。飯盛山といえば白虎隊の悲劇である。白虎隊は戊辰戦争時会津藩で16~17歳の青年たちで(中には15歳、最年少では13歳)組織された部隊である。会津藩では鶴ヶ城を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めるも、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織され予備兵力であった白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。だが、会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされ、飯盛山に負傷した仲間を連れた部隊は深刻な負傷によりこれ以上はもはや戦えないと悟り自刃を決した。飯盛山からは城下町を一望できたが、正月の雪積る山の寒さが彼らへの哀悼の気持ちが深まった。
そもそも我々のこの日常生活というものに対して疑いをも差しはさまず、あらゆる感覚、思想を働かして自我の充実を求めて行く生活、そして何を見、何に触れるにしても直ちにその物から出来るだけの経験と感覚とを得て生活の充実をはかっている。これが人間のなすべき事であり、また人生ではないのだろうか。そしてこの心を持って自然を見て主観に映った色彩、主観に入った自然の姿、これが人間生活の絶対的経験という立場からすべての刺激を受け入れて日常生活の経験を豊富にするという、そのための努力、それが人生を楽しむ努力ではないのだろうか?だがこれだけではなく、満足が出来ず、自己の存在を明らかにする唯一の意識、感覚そのものに疑いを呈することもできる。ただ人生の保証(そういえるのだろうか)、また事実として自分が持っている感覚にどれほどの力があるか、これを考えた時に我々は考えずにはいられない。まあ、いやしくも肉体において、あらゆる外界の刺激に耐えられるのは人それぞれだが、わずかに成人してから10年ぐらいの極めて短い年月、人によっては耐えられない人も多くいる中で年と共に肉体的の疲労を感じて来て、いかほどの思想において願えばよいのかだろうか?しまいには外界の刺激は鋭く感覚にならないのかもしれない。だが白虎隊という思春期の外界から刺激を鋭く感じ、武士の誇りといったものは、実に人間として感覚の悲哀を感じることだろう。
また一方、自分の感覚に、いかほどの経験を意識する事が出来るか、ほとんど数えきれない程の多くの外界的刺激に対しての感覚は、極めて単調であるとしか見られないだろう。要するに人間の感覚に限りのある事は明らかなことである。そしてこれは個々の能力のみに限らず時間的にも相当の際限は免れない。思えば感覚の生活もやがて滅びて事実も予想せずにはいられない。
人間として生まれて来た以上は、肉体においても、精神においても各々その経験を出来得る限り多く営んでみたいということは誰しも常に思いねがうところであるだろうし、またこれがが生活として意義ある事であろうと考える。だがその本能に満足を遂げつつある間に、人間は自己の滅亡という事を予想せずにはいられない。そこで痛切に脳裏に『私はどこからどこへ行く』という考えも起こるのであろる。または『生まれて、果して何のために生活するか』という様な問題も考えられるだ。そしてしまいには、肉体と精神とを挙げて犠牲にするだけの偶像を何物にも見出すことのできない悲しみを感ぜずにはいられないのかもしれない...
白虎隊の彼らの絶望と同じくして人は失うこともあれば、残り生まれるものもある...
そんな妙な感覚に包まれたまま、下山し会津を後にした...
