道祖神様の下着は何色か。

404 your girlfriend not found

令和遣欧使節-①

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スペインへ発つ朝は困難の連続であった。昨晩の台風により、成田空港へ向かう電車及びバスは運休であり、仕方なく東京駅で空港へ向かいたい人を連れ相乗りで向かうも大渋滞であった。

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結果として、その日のフライトに間に合わず人生初の空港にて宿泊することとなった。

 

翌朝、航空会社との長く苦しい交渉が始まった。チケットを航空会社から直接ではなく、エアトリで購入していたため、振り替えも後回しにされた。もう、諦めようとしたその時、希望の光が成田空港へと差した。

 

登場予定の顧客の貨物が積載できず、10席空いたとのことであった。

この時間、フライトまで残り10分。

 

絶望とも思えたが、神は見捨ててないようだ。

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深夜のアブダビからバルセロナへと向かい、到着したの明け方であった。

バルセロナ市街に降り立つと街中が安息日のようにすべての店が閉まっていた。

 

話を聞くとカタルーニャ州独立運動を行う祭りがあるため、終日ほとんどの店が休業しているとのことであった。幸い、サグラダファミリアは開いていたので、入場しようにも新たな試練が訪れる。

 

それは手荷物検査の際に日本から持ってきた味の素が違法薬物と勘違いされ、取り調べをうけることになった。

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このパンダのかわいい入れ物に入った白い結晶片がおそらく覚せい剤か何かに見えたのであろう。必死に英語やスペイン語で調味料だと伝えるも警備員は一向に聞く耳をもってくれない。もはや、これまでか。海外に行くだけで、これほどまで苦労したのに、たかが調味料1つで海外でお縄になるなんて思いもしなかったのに。すべてを諦めかけたその瞬間。

 

またもや、神は存在したのである。他の警備員が味の素を見て、私を疑う警備員に対して、スペイン語で代わりに事細かく説明してくれたのである。警備員に怪しいものを持ってくるなと怒られ、入場を許された。

 

サグラダファミリアは1882年から着工され、いまだに完成していないカタロニア・モダニズムの著名な作品である。ガウディの死後の1936年に始まったスペイン内戦により、ガウディが残した設計図や模型、ガウディの構想に基づき弟子たちが作成した資料のほとんどが散逸した。これによりガウディの構想を完全に実現することが不可能となり、サグラダ・ファミリアの建造を続けるべきかという議論があったが、職人による口伝えや、外観の大まかなデッサンなど残されたわずかな資料を元に、その時代の建築家がガウディの設計構想を推測するといった形で現在も建設が行われている。

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これは、イエスの誕生を表す生誕のファサードである。ここでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴している。

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こちらは受難のファサードと呼ばれ、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。東側とは全く異なり、現代彫刻でイエスの受難が表現されており、左下の最後の晩餐から右上のイエスの埋葬まで「S」の字を逆になぞるように彫刻が配置されている。

 

かつては、完成まで300年かかると言われていたが、スペインの経済成長や拝観料収入により進捗が加速している。さらに、3D構造解析技術や3Dプリンタによるシミュレーションによる成果が著しく。2026年に完成とかつての300年から144年で完成することになる。

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教会内部は木漏れ日が差し込むような巨大な森を想像し設計され、明るく色鮮やかな空間で陽光だけで、これほどまで明るいのかと非常に驚いた。

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サグラダ・ファミリアは民族のシンボル、地域のランドマークでもあるため、しばしば教会付近がカタルーニャ独立運動のデモ隊が教会に集結していた。

 

警備員たちから緊張感が非常に伝わり、多くの観光客が入ってき始め、居心地も悪くなったので、バルセロナ市街を回ることにした。





 

禅って全然わかりまセン。

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白川郷を後にし、その日の夜遅く福井へ到着した。福井へ来た目的は、ほぼ一つであり、永平寺にて座禅を体験することであった。

 

翌朝、永平寺に向かう前に、せっかくなので東尋坊を観光することにした。

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雄島

 

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早朝であったため、バスの運転手の方から自殺志願者と間違われ、ずっと話しかけられた。

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東尋坊の名の由来は、雄島にある大湊神社には下記のような由来を紹介していた。

平泉寺に暴虐非道で皆を困らせていた東尋坊という僧侶がいた。また、東尋坊は美しい姫に心を奪われ、恋敵の真柄覚念という僧と互いに嫌悪し合っていた。ある日、寺の僧たちで崖にて酒宴を行い、東尋坊は酔いのあまり眠ってしまった。日頃から手を焼いていた僧たち及び真柄覚念は、ここぞとばかりに岸壁から突き落とした。それからこの崖は東尋坊と呼ばれるにいたる。

 

自殺の名所として名高いが、現在ではポケモンGOでレアポケモンが多く出るスポットとして、ポケモン目当ての訪問者を増やし、自殺防止に繋げているようだ。

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東尋坊近くの食堂にて朝ごはん 味噌汁が染みる。

 

朝食をとった後、東尋坊を離れ、永平寺へと向かった。

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先程までいた東尋坊とは異なり、緑に囲まれた境内は静謐さを保っていた。

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永平寺曹洞宗の開祖、道元によって開山された。道元は幼少期に父母を亡くし、14歳で比叡山に登り、仏門へ入門した。しかし、比叡山にて天台宗の教えである本覚思想や仏性を人は生まれながら持っているにもかかわらず、厳しい修行を得なければ悟りを得られないのかに疑問を抱いた。そこで、臨済宗の宗祖である栄西建仁寺入るも、答えは得ず宋に渡り、修行を行った。宋ではひたすらに座禅に打ち込む修行であり、ここで「只管打座」の境地に至った。帰国後、京に興聖寺を建立し、説法と著述に勤しむが、かつて修行した比叡山からの激しい迫害を受けた。

 

そこで、信徒の一人である越前の土豪の請いから越前へ下り、永平寺を開山した。

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座禅ルームにて

 

永平寺は現在でも修行する僧侶が数多くおり、高野山同様に観光地である以上に修行の地であることを体感することができた。

 

永平寺を訪れてから、道元の考えについて資料を集めることにした。

 

そこで、和辻哲郎による「日本精神史研究」の「沙門道元」を基に、道元について考えると、道元の言説は永遠なる価値の顕現を中心とし、世間的価値の破壊はその出発点でなくてはならないことに帰着するのではと考えた。
 そして、この価値の破壊を道元は仏教の伝統に従って「無常を観ずる」という表語に現わした。

世間の無常は思索の問題ではない、現前の事実である。朝に生まれたものが夕に死ぬ。昨日見た人が今日はない。我々自身も今夜重病にかかりあるいは盗賊に殺されるかもわからない。もしこの生命が我々の有する唯一の価値であるならば、我々の存在は価値なきに等しい。(随聞記第二)

 

この言葉は当時の生活不安を背景として見れば、最も直接な実感であるが、それが人生観の根拠として置かれたとなると、それはもはや単なる感傷ではありえないだろう。それは人間のあらゆる思想、制度、努力等に対する弾劾である。富や名声といったものを得ようとする一切の活動を拒否することを意味している。従って人々の物質的な効用を増進する一切の努力は生まれず、反対に人は遁世することを意味しているのではないだろうか。
 しかし、現実生活の否定、死後(浄土)の生活の希求を意味するのではない。否定しているのはただ物質的な効用、または名利の念を内容とする生活であって、偉大なる人類的価値を目ざすところの超個人的な生活そのものではない。この意味で此岸と彼岸との別は現世と死後との別ではないであろう。彼にとって、死後と生前とを問わず、真理に入れる生活が彼岸の生活なのである。生前と死後とを問わず、迷執に囚われた生活は此岸の生活である。従って理想の生をこの世からあの世へ移すことは無意義であると唱えている。理想の生はここに直ちに実現さるべきものとして存在するのである。そのため、現世の価値の破壊は直下にこの生を実現し得んがための価値倒換にほかならないのであろう。

 この価値倒換によって永遠なる価値への真実の「要求」が生まれる。そうしてこの要求によってのみ真理への証入は可能である。
 道元は以下のように記している。

仏の真理は何人の前にも開かれている。天分の貧富、才能の利鈍というごときことはここには問題でない。しかも人がそれを得ないのは何ゆえであるか。得ようとしないからである。要求が切実でないからである。要求さえ切実であるならば、下智劣根を問わず、痴愚悪人を論ぜず、必ず仏の真理は獲得し得られる。だから道に志すものは第一にこの要求を切実にしなくてはならない。世人の重き宝を盗もうと思い、強い敵を打たんと思い、絶世の美人を得ようと思うものは、行住坐臥が、その事の実現のために心を砕いている。いわんや生死の輪廻を切る一大事が、生温い心で獲られるわけはない。(随聞記第二)

 そこで、すでに要求があり、精進の意志がある。ここにおいて問題となるのは学修の方法でなくてはならないとした。


 その方法は第一に「行」である。「行」とはあらゆる旧見、吾我の判別、吾我の意欲を捨て、仏祖の言動に従うことである。すなわち世間的価値の一切を放擲して、虚心なる仏祖の模倣者となることである。つまり、例えあらゆる経典を読破し理解しても、学者としての名誉を得ようとするごとき名利の念に動いている時には、その理解は真実の体得ではない。

道元

もし行者が、この事は悪事であるから人が悪く思うだろうと考えてその事をしない、あるいは自分がこの事をすれば人が仏法者と思うだろうと考えてある善行をする、というような場合には、それは世情である。しかしまた世人を顧慮しないことを見せるために、ほしいままに心に任せて悪事をすれば、それは単純に我執であり悪心である。行者はこの種の世情悪心を忘れて、ただ専心に仏法のために行ずべきである(同上第二)。遁世とは世人の情を心にかけないことにほかならぬ。世間の人がいかに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の行履に従って行ずれば、そこに仏弟子の道がある(同上第三)。仏道に入るには、わが心に善悪を分けて善しと思い悪しと思うことを捨て、己れが都合好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言語行履に従うべきである。苦しくとも仏祖の行履であれば行なわなくてはならない。行ないたくても仏祖の行履になければ行なってはならない。かくして初めて新しい真理の世界が開けてくるのである(同上第二)。


 この「仏祖への盲従」が道元の言葉には最も著しいと感じた。もとより彼はこの行の中核として専心打坐を唱道する。しかし、それは、打坐が仏祖自身の修行法であり、またその直伝の道だからであろう。かくて「仏祖の模倣」は彼の修行法の根底に横たわっている。戒律を守るのも仏祖の家風だからである。難行工夫も仏祖の行履だからである。もし戒律を守らず難行を避くるならば、それは「仏の真理」への修行法とは言えない。
 この修行の態度は自力証入の意味を厳密に規定した。

 

ここには「たまたま生を人身に受けた」現実の生活に対する力強い信頼がある。この生のゆえに我々は永遠の価値をつかむこともできるのである。我々は、自己を空して仏祖に乗り移られることを欲し、乗り移られた時に燦然として輝き出すものが本来自己の内にあった永遠の生であるとしても、とにかく我々は自力をもってそこに達するのではない。我々がなし得、またなさざるべからざることは、ただ自己を空して真理を要求することに過ぎない。すなわち修行の態度としては「自らの力」の信仰ではない。
 自力他力の考え方の相違はむしろ「自己を空する」ことの意味にかかっているといえよう。他力の信仰においては、自己を空するとは自分の執着さえも自ら脱離し得ない自己の無力を悟ることである。この無力の自覚のゆえに煩悩の我々にも絶対の力が乗り移る。従って我々の行なう行も善も、自ら行なうのではなくして絶対の力が我々の内に動くのである。それに反して道元の道は、自ら執着を脱離し得べきを信じ、またそれを要求した。すなわち世間における価値の無意義さを感じ、永遠の価値の追求に身を投ずることを、自らの責任においてなすべしと命じた。

 ここに著しい相違が見られるのであると考える。前者においては、たとえば死に対する恐怖を離脱せよとは言わない。死後に浄土の永遠の安楽があるにかかわらず人が死を恐れるのは、「煩悩」のせいである。もしこの恐怖がなく死を急ぐ心持ちがあるならば、それは「煩悩」がないのであって、人としてはかえって不自然であると捉えている。阿弥陀の慈悲は人が愚かにもこの煩悩に悩まされているゆえに一層強く人を抱くのである。この考え方からすれば、病といった苦しみに悩む人が「肉体の健康」を求めて阿弥陀にすがるのは、きわめて自然の事と認めざるを得ない。しかし道元の考えにあっては身命への執着は最も許すべきでないことなのであろう。肉体的価値を得ようとするために永遠の価値に呼び掛けるようなことは、あってはならないとしている。死の恐怖に打ち勝ったものでなくては、仏の真理へ身を投げかけたとは言えないとした。念仏宗は肉体のために弥陀にすがることを是認し、道元は真理のために肉体を捨てるすることを要求する。しかも前者は解脱をただ死後の生に置き、後者は今の生においてそれを実現しようとする。つまり、自己の救済に重心を置き、他は仏の真理の顕現に重心を置く。自己放擲という点ではむしろ後者の方が徹底的であると言えよう。

 

道元自身は修行の目的として、真理王国の建設を目的とした。「仏法のための仏法修行」この覚悟が日本人たる道元において体現されたことは、驚きであった。真理それ自身のために真理を求めることは、必ずしもギリシア文化のみの特性ではなく、真理において最高の価値を認めるものは、究極の目的を認めるものは、必ずこの境地に達しなくてはならない。そうして道元はそこに達したのである。彼にとって仏法の修行は他のある物を得んがための手段ではなかった。

 

「皆無所得」これ彼の言説を貫通して響く力強い主張であろう。仏法は人生のためのものでない。人生が仏法のためのものである。仏法は国家のためのものでない。国家は仏法のためにあるのであると考えたのであろう。

www.aozora.gr.jp

 

あれこれ考えてみたものの、ここまで物質に囲まれ育った自分には道元のように捨てることはできないと断言できよう。

 

 

 

高野聖

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その年の7月の中旬まで梅雨が長く続き、このままでは冷夏ではとニュースを騒がせていた。

 

下旬になると梅雨も明け、途端に夏の訪れを身をもって味わうことになった。定期試験も終わり、夏休みが到来した私は、日本の夏を体感するべく、飛騨へ向かうことにした。

 

深夜バスで名古屋に到着し、岐阜を経由して白川郷へのバスターミナル高山へと向かった。

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高山へ向かう高山本線木曽川や飛騨川、神通川といった河川に沿って通っており、車窓からは飛水峡、中山七里といった名所を見ることができた。

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鈍行で行ったため、名古屋から3時間半もかかったが、高山も非常に美しい町であった。もともと、高山は豊富な山林・鉱山資源に目を付けた幕府により直轄領であった。天領の役所であった高山陣屋を中心として、今もなお江戸時代の街並みを残している。

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高山から白川郷は再度バスで向かうことになるが、全長11㎞にもなる長大トンネル「飛騨トンネル」を抜けると、日本人の考える里山を体現したかのような風景が広がっていた。

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白川郷を見下ろす荻町城跡展望台にて

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白川郷といえば合掌造りであるが、いつ始められたかは定かではないそうだ。また、合掌造りという言葉自体も1930年ごろにフィールドワークを行った研究者によって呼ばれ始めたといわれる。(日本国政府文化庁 (1994) 「合掌造り家屋の成立時期」より)

 

現在では水田が広がっているが、戦後に転作されたものがほとんどを占めており、もともとは焼き畑による稗、粟、蕎麦といった雑穀、そして養蚕のための桑が占めていた。稲作に不向きな土地柄であり、その分家内工業が発達し、家屋の大型化、多層化が進んだと考えれる。f:id:n_hermes:20210921104126j:plain

合掌造りの屋根はいずれも妻を南北に向けている。これは

  1. 冬場の融雪と茅葺の乾燥
  2. 南北に細長い谷に集落があるため冬場の強風に対して、受ける面積の縮小
  3. 夏場は屋根裏の窓を開けて風通しを良くし、蚕が熱でやられないにする

といった目的があったと考えられている。

(水村光男 (2002) 『オールカラー完全版 世界遺産第7巻 - 日本・オセアニア講談社講談社+α文庫〉)

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美しい里山を散策しながらも、一種の違和感そして不気味さを抱き始めた。それは、世界遺産に登録された場の宿命ともいえる観光地化により、生活感の喪失を感じたためではないかと考える。

 

かくいう私も観光客として訪れているため、とやかく言うことではないと思うが、この違和感、不気味さについて考えていく。

 

まず、不気味なものについてフロイトは、かつて親しくなじんていたものが個体発生的にも系統発生的にも文明化の過程でいったん抑圧された後、何らかの契機に不意に回帰したものと捉え、不気味さとは、それに直面した文明人が感じる不安や恐怖であると論じた。(ジグムント・フロイト 須藤 訓任/藤野 寛【訳】 フロイト全集〈17〉1919-1922年―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学(2006))

テリー・キャッスルはこの不気味なものの発生条件となる知のモーメントを18世紀の啓蒙主義に求め、不気味なものが啓蒙期の歴史的条件の下で「発明」されたと論じた。近代及び現代は啓蒙的知が世界を説明する原理として内面化されおり、不気味なものは文明の光が落とした影として生み出され、近代化、現代化の主体である我々を恐怖に陥れる。では、この白川郷という美しい里山に私が感じた不気味さの正体は何であろうか。

これまで人間は自然と共存する形で生存しており、自然と慣れ親しんでいたはずである。しかし、文明化と共に自然を切り開き共存ではなく、利用するという形へ変容していった。そこで、旧来の里山といった自然と人工の調和ともいえる環境を訪れるも、スマートフォンを所有し自家用車で訪れる観光客、白川郷を囲むようにある高速道路といった現代技術があることで、かえって里山が現代とは切り離された異界のように感じ、不気味さを感じているのではないかと私は考える。

 

美しき里山世界遺産による観光地化の弊害を目の当たりにし、あれこれ考えながら再度バスにて福井へ向かうことにした...

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海辺のダレカ

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「それで、お金のことはなんとかなったんだね?」とカラスと呼ばれる少年は言う。いくぶんのっそりとした、いつものしゃべりかただ。深い眠りから目覚めたばかりで、口の筋肉が重くてまだうまく動かないときのような。でもそれはそぶりみたいなもので、じっさいには隅から隅まで目覚めている。いつもと同じように。  村上春樹 『海辺のカフカ

 

大学1年の春休みのことであった———。

秋学期の成績が発表され、般教1つ以外は単位取得。素晴らしい出来である。お金がないので、また青春18きっぷで帰省することになった。

 

 

青春18きっぷ・・・

 

 そう、

 

君はこれから世界でいちばんタフな大学1年生にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。(カラスの少年感)

 

はい、地獄の青春18きっぷ旅行のスタートである。いつものように4時半の始発で東京に向かい、長き長き東海道線を乗り継いでいく・・・

 

そんな退屈な東海道線のお供は

 

デン!!!

銀色のヤツ!!!(地獄)

 

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はい、敗北者の飲み物、世相を反映した日本の闇の体現者、酒税法に苛め抜かれたメーカーの怨念の最高傑作であるスト缶である。もう東海道線なんて青春18きっぷで何往復もしていたら飽きた。本を読むにも山陽本線までに読み切りそうなので仕方ないのである。こんなゴミを胃に流し込んでいく。

 

当初は京都または大阪で宿泊する予定であったが、どうしても澄んだ出汁のうどんを食したくなってしまった。

 

うどんの総本山讃岐国へいざ参らん!!

 

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わーい四国に上陸するぞぉ(小並感)

 

やっと瀬戸大橋である。いやぁ長かった。本当に長かった。4:30すぎに出発したの高松に到着したのは夕方18:00すぎである。駅前のホテルに着き、長旅でボロボロの私の体は優しく労わってくれるうどんよりも酒しかない!!!(本末転倒)というわけで本店は確か丸亀だが骨付き鳥の名店一鶴に行くことにした。

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いやぁうまい!!!

酒しか勝たん!!

 

骨付き鳥は親鳥と雛鳥を選ぶことができたのだが、『親鳥』はしっかり噛みごたえがあり、噛むほどに味わい深い肉の旨味が染み渡る。柔らかい鶏肉の『雛鳥』は柔らかく優しい味わいと共に親鳥以上に脂が口に広がっていく。味付けは胡椒が効いたパンチのある味で、このスパイシーさがビールを流し込まずにはいられない。本当は夜の高松をもっと観光したかったのだが疲労困憊かつ泥酔の私には無理でした。ごめんなさい。

 

翌朝高松観光とともにうどん巡りをした。

 

ここで

【悲報】うどんのために来たのに一枚もうどんの写真が残っていない模様(´;ω;`)

 

本当に申し訳ない。いや全部美味しかった。でも一枚も写真が残っていない。全部で6軒ほど行ったのだが一枚もないなんて。

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気を取り直して高松観光にでも触れていくことにする。高松を観光したと言いつつも、一か所、栗林公園しか行っていないのだが…

 

栗林公園はもともとはこの地を治めていた生駒氏の家臣の屋敷が築かれたことに始まり、生駒氏が改易された後、高松藩初代藩主、松平頼重が隠居後の屋敷を建てた。その後飢饉対策の救済事業で庭園の土木工事を行い、拡張を進め頼重が屋敷を構えて約100年たった1745年に現在の姿へと整備された。この庭園は国の特別名勝に指定されているが、特別名勝の庭園の多くが一定の視点からの眺めを追求した「座観式」である。一方、栗林公園の作庭様式は、「池泉回遊式」と呼ばれ、広大な敷地に池泉や築山などを配し、園内を散策しながら移りゆく景観を楽しめる。一歩歩くごとに風景が変わる一歩一景の魅力があった。

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栗林公園に行った後、高松から離れて鳴門の大塚国際美術館に行った。この美術館の特徴は何一つとして原画が展示されておらず、すべて陶板版画による複製品である。しかし、質感まで忠実に再現されおり、壁画なども空間まで忠実に再現されている。また現地では鑑賞制限があるスペースに入り込み、作品を間近でじっくりと鑑賞できるというのは、こちらの美術館でしかできない体験であり、遠景でしか見れないものを間近で見ることができるのは新鮮な体験であった。私が訪れたのが紅白歌合戦で米津玄師がこの美術館で歌ったこともあり多くの人が訪れていた。

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彼が歌唱していたのはバチカンシスティーナ礼拝堂最後の審判の場で、多くの人が写真を撮っていた。バチカンでは下から見上げる形となるのだが、ここでは二階から水平に鑑賞することができた。

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新国立美術館に次ぐ面積を誇っており、すべてを見回るだけであっという間に時が過ぎていた。

 

美術館にいる間、いいニュースを友人から聞くことになった。それは、高校時代の友人が1年間の浪人を経て、大学に合格したとの報告であった。友人の1年間の努力が報われ、涙ながらに報告してくれた友人の声に自分もうれしさでいっぱいであったと記憶している。

 

あれから3年が経ち、しばらくその友人とも会わぬままコロナにより、さらに会いにくくなった。

 

海辺のカフカでの佐伯さんが最後にカフカ

「絵を見なさい」と彼女は静かな声で言う。「私がそうしたのと同じように、いつも絵を見るのよ」

と言ったようにこの美術館の思い出が友人を思い出すトリガーになるのかもしれない。生きるにあたって、必ず失ってはいけない記憶は誰しもあると思う。しかし多忙を極めることによって、大切だった記憶さえも失ってしまうこともあるのかもしれない。だが、高校という青春を共に過ごした仲間と人生の玄冬になるまで語り合い、友人としていたいものである。

 

 

 

 

 

 

寅月、白に會ふ。

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2020年の幕開け————。

 

ごめん、元旦には書けませんでした。いま、実家にいます。昨年の正月に訪れた会津若松の記事を私は作っています。……本当は、面倒臭いけれど、でも今はもう少しだけ、知らないふりをします。私の作るこの記事も、きっといつか誰かの青春を乗せ...

 

 

ません。

 

誰の青春も乗せません。

 

ただのオナニー自己満足。

 

改めまして、新年あけましておめでとうございます。謹んで新春をお祝い申し上げます。旧年からこんなくそブログを読んでくださり、誠にありがとうございます。今年も頑張って更新して行きたいと思います。

 

じゃあ、始めてゆきますか

 

元旦に特典航空券で実家から帰った私は一人でダラダラと過ごしていた。気づくと明日から大学―――――

 

死ね

 

ということで、余った青春18きっぷ消化のため、まあ八重の桜とかあったので適当な気持ちで会津若松に行くことにした。

 

翌朝、1限に行くための列車より乗れる始発に乗り、会津若松を目指した。会津若松までは仙台同様7時間ほどかかる。いつも通り、宇都宮線を爆睡して黒磯、白河と乗り継ぎ、郡山で磐越西で会津若松へとたどり着いた。駅に降り立って一言...

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寒すぎる(n回目)

 

寒さに弱い私は震えながら会津へと降り立った。

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昼近くになっていたので観光案内所でお勧めの食事処を聞くことにした。案内所からは折角会津に来たなら渋川問屋行くとよいと言われたのでそこに行くことにした。

 

どうやら渋川問屋は会津の郷土料理を楽しめることができるようだ。駅からしばらく歩くと言われた店に着いたが、これである。

 

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学生が入れる店なのか? 

 

さすがに驚いた。こんな歴史的建造物だとはよもや思いもよらなかった。どうやら渋川問屋は120年以上もの歴史をもつ元海産物問屋で現在は食事処と宿泊施設を兼ねているようだ。

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店内は明治時代に建築された蔵や大正時代の木造家屋などの建物を生かし配置も当時のままで、会津商家の大店も面影をとどめている。

 

店に入ると女将さんから勧められるがまま会津の郷土料理コースを頼むことにした。

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会津には古来より、その気候風土や歴史、生活様式を背景に、地域に根差した多くの郷土、伝統食が存在しているようだ。盆地や山間地からなる会津は、千葉や愛知がすっぽり収まるほど広大な地域であるため、地域内でも多様な食形態がみられたようだ。盆地では主に米作であり、一方山間地域では、山菜や沢の魚介、獣肉などによる食形態が主流だったようだ。地域全体を通して豪雪に見舞われる冬には、漬物などの保存食や発行食文化も広がった。こうした自給型の食文化がある一方で、海から遠い地域にも拘わらず、江戸時代北前船の発展とともに新潟を経由してもたらされた海産物と地場生産物との組み合わせにより生まれた乾物料理は会津の食文化に大きな役割を果たした。

 

一番代表的な会津料理として、まず「こづゆ」を挙げる。こづゆは武家料理や庶民のごちそうとして広まり、現在でも正月や冠婚葬祭などハレの席で、必ず振る舞われる郷土料理である。簡単にいえば雑煮にあたるもので乾物の帆立貝柱を用いているのが特徴だ。次は棒鱈の甘煮である。これも北前船の発展により生まれたもので鱈の素干しを水で戻し、醤油や砂糖で煮たものだ。これも古くは正月や祭りのごちそうとして提供されたものだが、同様の料理は京都でも見られ、ここにも北前船で結ばれた関係だと推測される。どの料理も非常に美味しく、だしのうまみを非常に感じた。

 

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食後、市街を散策していると造り酒屋があったので入ることにした。ここで初めて知ったのだが、福島県は7年連続日本酒の品評会で金賞を取り続けている日本酒の名産地であった。私が訪れたのは末廣酒造で嘉永3(1850)年に創業し、明治時代に福島県で初めて杜氏による酒造りを実現。大正時代には山廃造りの試験醸造も行い、現在に伝承されている老舗だ。ただ日本酒を見るだけでよかったのだが、心優しいことに酒蔵見学までさせてもらった。日本建築では珍しい高い吹き抜けの威風堂々とした造りであった。一階は仕込みを見学させてもらったが、二階は昔の生活空間が残されており、大広間には会津藩松平容保や最後の将軍徳川慶喜の書を見ることができた。さらには、末廣の親類に当たる小林栄を父と仰いだ、医聖・野口英世がこの嘉永蔵で実際に書いた書や、その時撮影した写真などがあった。見学後、試飲コーナーでは末廣酒造のお酒が勢揃いしていた。昔ながらの製法を頑なに守り続けている「伝承山廃 純米末廣」や「伝承きもと 純米末廣」、鑑評会で金賞に輝いた原酒を詰めた「大吟醸 玄宰」、納得のいくまで熟成させる「大吟醸 舞」話題の微発泡酒「ぷちぷち」など末廣酒造を代表する酒の他にも10種類ほど飲ませてもらった。お土産に猪口と徳利と日本酒を買って後にした。

 

ほろ酔いの中次は鶴ヶ城を目指した。鶴ヶ城、別名会津若松城会津藩の城で蒲生や加藤など様々な大名を経て、徳川家光の庶弟、保科正之が入封し、松平家が受け継いでゆく。この城といえば戊辰戦争の戦闘の一つである会津戦争である。会津勢の立て篭もるこの城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。1か月の間持ちこたえたが、降伏し開城した。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しかったが修復は行われず、しばらく放置された後、解体された。現在の天守は戦後再建されたもので、博物館として公開されている。

 

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城は赤瓦に積もる雪も相まって、非常に美しいものであった。そしておやつがてら、城内の本丸にある茶室に行くことにした。この茶室、名は「麟閣」といい千利休が自害したのち、弟子であった蒲生氏郷千利休の子・少庵を会津に招いてかくまい、少庵がその恩義に報いて建てたといわれる茶室である。戊辰戦争の後、移築・保存されていましたが、平成2年に城内へ戻された。

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城を出て、飯盛山へと向かった。飯盛山といえば白虎隊の悲劇である。白虎隊は戊辰戦争会津藩で16~17歳の青年たちで(中には15歳、最年少では13歳)組織された部隊である。会津藩では鶴ヶ城を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めるも、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織され予備兵力であった白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。だが、会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされ、飯盛山に負傷した仲間を連れた部隊は深刻な負傷によりこれ以上はもはや戦えないと悟り自刃を決した。飯盛山からは城下町を一望できたが、正月の雪積る山の寒さが彼らへの哀悼の気持ちが深まった。

 

そもそも我々のこの日常生活というものに対して疑いをも差しはさまず、あらゆる感覚、思想を働かして自我の充実を求めて行く生活、そして何を見、何に触れるにしても直ちにその物から出来るだけの経験と感覚とを得て生活の充実をはかっている。これが人間のなすべき事であり、また人生ではないのだろうか。そしてこの心を持って自然を見て主観に映った色彩、主観に入った自然の姿、これが人間生活の絶対的経験という立場からすべての刺激を受け入れて日常生活の経験を豊富にするという、そのための努力、それが人生を楽しむ努力ではないのだろうか?だがこれだけではなく、満足が出来ず、自己の存在を明らかにする唯一の意識、感覚そのものに疑いを呈することもできる。ただ人生の保証(そういえるのだろうか)、また事実として自分が持っている感覚にどれほどの力があるか、これを考えた時に我々は考えずにはいられない。まあ、いやしくも肉体において、あらゆる外界の刺激に耐えられるのは人それぞれだが、わずかに成人してから10年ぐらいの極めて短い年月、人によっては耐えられない人も多くいる中で年と共に肉体的の疲労を感じて来て、いかほどの思想において願えばよいのかだろうか?しまいには外界の刺激は鋭く感覚にならないのかもしれない。だが白虎隊という思春期の外界から刺激を鋭く感じ、武士の誇りといったものは、実に人間として感覚の悲哀を感じることだろう。
 また一方、自分の感覚に、いかほどの経験を意識する事が出来るか、ほとんど数えきれない程の多くの外界的刺激に対しての感覚は、極めて単調であるとしか見られないだろう。要するに人間の感覚に限りのある事は明らかなことである。そしてこれは個々の能力のみに限らず時間的にも相当の際限は免れない。思えば感覚の生活もやがて滅びて事実も予想せずにはいられない。

 人間として生まれて来た以上は、肉体においても、精神においても各々その経験を出来得る限り多く営んでみたいということは誰しも常に思いねがうところであるだろうし、またこれがが生活として意義ある事であろうと考える。だがその本能に満足を遂げつつある間に、人間は自己の滅亡という事を予想せずにはいられない。そこで痛切に脳裏に『私はどこからどこへ行く』という考えも起こるのであろる。または『生まれて、果して何のために生活するか』という様な問題も考えられるだ。そしてしまいには、肉体と精神とを挙げて犠牲にするだけの偶像を何物にも見出すことのできない悲しみを感ぜずにはいられないのかもしれない...

 

白虎隊の彼らの絶望と同じくして人は失うこともあれば、残り生まれるものもある...

 

そんな妙な感覚に包まれたまま、下山し会津を後にした...

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中山道中鐵栗毛

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武蔵野の尾花がすゑにかゝる白雲と詠よみしは、むかしむかし浦の苫屋とまや、鴫しぎたつ沢の夕暮に愛めでて、仲の町の夕景色をしらざる時のことなりし

 

東海道中膝栗毛十返舎一九が記したが、あれから東京の夕景色はさらに様変わりした。まあ10月に2回も旅行してから暫くプロレタリアートとして日々を溶かしていると12月となっていた。冬になったのでまた青春18きっぷが発売され、現実逃避というかなんというかつまらぬ浮世に飽き果て、東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛と喜多八同様、旅に出ることにした。

 

しかし私は彼らのように相棒はおらず、行く先も伊勢ではなく名古屋にし、膝栗毛ではなく鉄道で、そして極めつけは東海道を使わず中山道、つまり中央線を使い行くことにした。

 

18きっぱーの朝は早い。毎度恒例安定の4:30過ぎの始発に駆け込んだ。東京都市圏輸送と郊外輸送の分岐点、高尾駅を過ぎると沿線は急に山岳地帯となる。数えきれないほど酔っぱらった学生を絶望へ送った、大月駅で乗り換え、甲府塩尻と乗りついできた。そして塩尻で中津川へ向かう。深い木曽谷に入り、木曽川の渓谷に沿って渓谷美が楽しめる。沿線からは名勝「寝覚ノ床」があり花崗岩が侵食された美しい景色が広がり、通過する際は速度を落として景色を見せてくれた。

 

津川駅からは岐阜県に入り木曽川と分かれると、線形が良くなり、徐々に沿線も宅地化が進んできた。盆地や台地を頻繁に上り下りし次第に都会の喧噪に引き戻された。

 

名古屋に着いたのは12:00前であった。新幹線なら2時間ほどで到着するのが在来線では7時間以上もかかる。名古屋駅についてまず味噌煮込みうどんを食べることにした。

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味噌煮込みうどんはかつおだしと名古屋名産の八丁味噌で作った濃い汁に、かための太いうどんを入れて煮込んだ料理である。九州出身の私はどうも名古屋の八丁味噌が口に合わなかったようだ。昼食後、浪人をしていた友人の志望校合格祈願のために熱田神宮へ行くことにした。熱田神宮三種の神器の1つである草薙剣を祀る神社として知られている。また織田信長桶狭間の戦いの前に戦勝を祈願して見事に勝利を収めた話はあまりにも有名だ。

 

草薙剣は、素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治したときにその尾から生まれたものといわれ、その後素戔嗚尊が姉である天照大御神に献上した。そして天照が天孫降臨の神勅を下すにあたってこの神剣に霊魂を込め、神鏡(八咫鏡)・神璽(八尺瓊勾玉)と共に邇邇芸命に授けて以来、天皇家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀ってきた。だが10代崇神天皇の際に神威が増し恐れ多いとのことで伊勢に移した。これから伊勢神宮の創祀であり、ここに皇居と神宮の分離が初めてなされることになった。鏡は伊勢に残されたが剣は熱田の地へ下った。12代景行天皇の治世に日本武尊の東征に際し、熱田にて草薙剣を受け取った。日本武尊の死後、再度草薙剣は熱田に返され今に至る。

 

 

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境内は、昔から雲見山・蓬莱島の名で知られ、大都会の中にありながら静寂があり、深閑としずまるその様は神代から神と人を千古の杜に仰ぎみる悠遠のときを感じることができる。



熱田神宮で参詣後、味噌煮込みうどんだけではお腹が空くので(デブ感)

エビフライを食べに行った。

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食後は名古屋城を観光しようと思ったが、改修工事のため断念した。その後、中央線で松本まで行き宿泊することにした。

 

翌朝、善光寺にでも参ろうと思い立ち長野へ向かった。

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長野へ向かう途中日本三大車窓として名高い姥捨から見下ろす善光寺平は冬の寒空の下、荒涼としていた。長野駅へ着くと気が変わりせっかくなので奥信濃まで行くことにし、野沢温泉に入ろうと思い至った。

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早朝からの疲れで、乗車してすぐ眠りについてしまった。

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目が覚めると車窓からは白銀の世界が広がり、私以外乗車していない車窓からは一切の人の営みが認められず、雪に吸いとられた音という音が、そこらに潜んででもいるかのような静けさが広がっていた。

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飯山駅で降車し、野沢温泉へと向かった。

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野沢温泉の特徴として、13軒ある共同浴場(外湯)が挙げられる。これは地元の湯仲間という組織によって管理されていて、寸志で入浴できる。外湯巡りを特徴とする温泉は城崎温泉も有名だが、城崎の各浴場が豪華に改築されつつあるのに対し、野沢温泉はいかにも質素で地元の人との会話もあり、庶民的である。明日から大学なので温泉に滞在できる時間はわずか3時間。この短い時間でできるだけ多くの外湯に入ることにした。

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全部入ろうと思っていたが、のぼせてしまったのであえなく断念。残りの時間は地ビールを飲んだりして、時間をつぶした。これから東京へ戻るのだがここでトラブルが発生した。雪のため線路の雪かきをしないといけないとのことだった。これまで美しいと思っていた景色はこのために美しくはなく陰惨にみえた。過疎化の進む街の風景の傷口をかくしている薄汚れた繃帯のようにそれがみえた。弱い光の日が落ちてからは帰宅できない不安も相まって寒気が星を磨き出すように冴えて来た。どうにか飯山線を切り抜け、上越線越後川口へ到着した。ここから川端康成の「雪国」のあまりにも有名な書き出しである国境の長いトンネルに入る。たしか「雪国」も師走の始めだったなぁとか思うと中学生と思われる女学生たちが乗車してきた。彼女らを葉子、駒子と名付けようと思ったがそれではクレイジーサイコ島村になってしまうので妄想を打ち止めにした。結局、自宅に着いたのは1:00をとうに過ぎていた。

 

ここまでだらだらと書き連ねたが、実は東海道中膝栗毛には続編があり、木曽や善行寺に訪れる続膝栗毛があった。まあ今回の旅は道中全てなんとなくで過ごしたため特に何事もなく、本家のように滑稽なことは何一つなかった。しかし、旅行という楽しかったことだけが葉のはざまの光の乱舞につれて次つぎと浮び、通り過ぎて行き、その幻想がすべて通り過ぎて行ったのちに明日から大学という現実がちらと暗黒微笑を浮べた時、深い虚無がやってきた。もう言うこともないので終えるとするかぁ。

 

さらば読者よ。命あらば、また他日。元気で行こう。絶望するな。では失敬。








 

 

佰萬石の羅刹

 

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曇った十月の或る日。とはいっても前回の仙台の旅から帰った翌週————

 

父親から突然電話がかかってきた。

 

「明日から母さんと金沢に行くけど、お前も来ない?」

 

ん...??

 

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こいつは何を言っているんだ?!

 

前日に金沢に行くと告げられ、謎に私の分のホテルも予約しているとのこと。訳がわからない。急いで準備をして翌日学校が終わるとすぐに金沢へ向けて新幹線に飛び乗った。

 

金沢駅に着くと両親がこっちだと手を振っている。金沢に到着当日は夜も遅かったのでその日はホテルで休むだけであった。こんな感じで家族と奇妙な金沢旅行が始まった。

 

翌朝、私たちは近江町市場へ向かった。金沢の中心地にあるこの市場は1721年から加賀藩前田家の御膳所として、また市民の台所としても賑わい、300年近くもの間、金沢の人々の生活を支えてきた。狭い小路を挟んで並ぶ約180店の店先で、日本海の新鮮な魚介や地元産の野菜、果物を中心に、漬け物、菓子類、生花、衣類など、さまざまな商品が威勢の良いやりとりの中で売り買いされ、市場はいつも活気に満ち溢れている。

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新鮮な魚介類やコロッケをはじめとする揚げ物など、店頭ですぐに食べることができるお店もあり、市場は早朝ながらも多くの人で活気に満ち溢れていた。私たちは朝ごはんとして寿司屋に入ることにした。

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朝一にも拘わらず多くの人が並んでいた。この店は海鮮丼が有名なのだが、朝から厳しいので朝握りを頼むことにした。ノドグロの炙り寿司が絶品であった。豪華な朝食の後、日本三名園の一つである兼六園へ向かった。

 

兼六園は17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、園名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した。回遊式とは、寺の方丈や御殿の書院から見て楽しむ座観式の庭園ではなく、土地の広さを最大に活かして、庭のなかに大きな池を穿ち、築山を築き、御亭や茶屋を点在させ、それらに立ち寄りながら全体を遊覧できる庭園である。いくつもの池と、それを結ぶ曲水があり、掘りあげた土で山を築き、多彩な樹木を植栽しているので、「築山・林泉・廻遊式庭園」とも言われている。四季それぞれに趣が深く、季節ごとにさまざまな表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。

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金沢は泉鏡花徳田秋声室生犀星など著名な作家たちを輩出したが、室生犀星の随筆「名園の落水」に兼六園が描かれている。室生犀星は庭オタクで「庭の木」、「日本の庭」とか「庭をつくる人」 など庭に関する文章を数多く書いている。「名園の落水」では園内の三芳庵という料亭近くにある夕顔亭という茶亭について書かれている。正直、そこまでメインの場所ではないが、彼は下らないと思いながらも、小さな崖から落ちる水の音に心惹かれ、仔細に美しく描写している。後に犀星は親友芥川をこの地へ連れていき、感動させた。犀星は芥川を兼六園ファンに取り込んだ。

本多邸を出て兼六公園へ行つて見る気がした。いつも東京からの客の案内役をしてゐて一人でゆつくり行つたことがないからである。翠滝の洲にある夕顔亭に李白の臥像を彫り出した石盥があつた。水はくされてゐて虫が浮いてゐる。お取り止めの石ださうであるが、蒼黒い肌をしてゐて一丈くらゐ廻りのある大椎の立木のかげにあつた。
 滝壺のすぐわきにお亭があつた。お亭の下は池の水が滝の余勢で弛く動いてゐる、お茶をのむためにむしろ冷爽すぎるお亭の中へ這入つて見た。十年前に一度這入つたがいまが初めてである。池の中洲に海底石の龕塔がんたふが葉を落した枝垂桜しだれざくらを挿んで立つてゐる。それを見ながら横になつてゐると、滝の音とは違ふ落ち水のしたたりがお亭の入口の方でした。小さい崖になつてゐて丸胴の埋め石へ苔からしぼられた清水が垂れる些ささやかな音だ。そこは四尺とない下駄をぬぐところである。よく見ると白い寂しい茸が五六本生えてゐて、うすぐもりの日かげが何時いつの間にか疎いひかりとなり、藪柑子やぶかうじのあたまを染めてゐる。これはいいなと思ひ、わたしは龕塔がんたふの方へ向けたからだを落水の方へゐなほした。そのとき一丈三尺の龕塔の頂上の一室に何だか小さい石像のほとけさんが坐つてゐるやうな気がして、また首をねぢむけたが、そんなものがゐる筈がない。寂然と四方開いてゐて、松の緑を透した空明りが見えた。秋おそく落ち水聴くや心冴ゆ……でたらめを一句つくり茶をのんで、けふは実に悠悠たる日がらだなと思つた。
 滝の落ち口のお亭の前を通つたときに、この春芥川君が来て泊つたお亭を覗いてみたが、秋深く松葉が散らばり二三本の篠竹の青い色を見られる格子戸に、人のけはひすらしなかつた。亭亭たる松の梢にある飼箱に群れる小鳥の声がするばかりであつた。このお亭にこのごろ泊つたら寒からうと思つた。
 曲水のほとりは水もうつくしくながれ、玉石の敷かれたあひだを喜んで上る目高が、群れてあるひは雁行してゐた。わたしはむかし歌合せなどの催しのあつたらしい此の曲水が好きだつた。石の姿や、その石をつつんでゐるつつじをながめてゐるうち、石のしたに敷島のからが流れてゐるのを悲しく見た。が、つつじの抜き枝や、円物づくりの姿のくづれたのが気になつて、何故手入れをしないのかと考へた。そしてこれが自分の庭だとしたら、終日あほらしい顔をして此処に佇たつて、水の動いて流れるのに倦きることはないだらう。水の流れるのは浅いほど美しく表情も複雑であどけなく思はれるが、深い水は何か暗澹として掻き曇り、心におしつける重りかかるものがあつた。それにくらべると曲水は古いがその感情は新鮮である。手を入れて掬ひたいやうだつた。石と石との間に決して同じい姿をしない水のながれに、いい着物のひだなどにみる媚びた美しさがあつた。古い言草で飛んでもない思ひつきだが、水はいまさら美しいと思つた。
 卯辰山の見える広場のベンチに近在のものらしい小娘と老母とが、塩せんべいを齧つてゐる。そのあたりに紙屑や吸がらなどが散らばり、芝は剥げ落ちそこだけ新開地のやうな荒れてゐる風致であつた。それも小汚なく東京くさく荒れてゐた。――そこから霞ヶ池への道路、だだつ広い空地の芝草もあとかたもなくなつてゐた。しかもその荒れた有様を取り止めようとしてゐない。名園を守るに市役所や県庁のともがらに委せておけないやうな気がしたが、しかしわたしはそれを嘆くだけである。わたしの役目を嘆くより外にはない。――霞ヶ池は老松にかこまれ、蒼ぐろく鱗波を掻き立てながら曇天の下にあつた。だが、五位鷺やきじの啼く声はなかつた。あるひは水すましが水の面をすべるくらゐである。わたしだちの子供のときよりか松も大きくなつたらうが、景色はこのあたりが一番古びて行つてゐるやうに思はれた。竜のひげが一そう青青と池のまはりを幾段にも縁取つてゐる。その藍いろの実を拾ふために子供が二三人群れてゐる外、池のまはりには人がゐなかつた。松と苔の公園は至るところに荒廃の跡が著しかつた。
 池に面した傘山といふのは、もう奇岩怪石の跡はあつても、苔はむしられ石は乱れた姿のままであつた。そのまはりの松や楓の大木、その木の間を透く池の面のどんよりした冷たさはよかつた。幼時の折、何の仕草もなくこの山の頂にある傘の形をした友待風なお亭で、ぐるぐる廻る傘を廻したものであつたが、あたりの皮のむけた赤土を見ただけでやはり荒れてゐると思つた。
 そこを下りて噴水のある小さい流れへ出たが、その小流れはつつじの茂りで隠されて了つて、音だけが配石の間から潺湲せんくわんとして聞えた。或ひは少しの音すらないところがあつたりした。石は苔でつつまれ指さきでも掻けぬほどになつてゐた。――もとの翠滝のほとりへ出て夕顔亭の落水を余処目よそめに見ながら公園の坂を下りかけたが、
「あの落水は公園で一番いいところぢやないか。」
 さう思ふと、名園を背景にしたせゐであらうが、あんな下らない落水が自分の心を惹くのも、おのづから自分にふさはしい好きなところを選んだのだと思つた。しかもそれは古くからあるのでなく、恐らく夕顔亭の主人がこさへたものであらうと思つた。わたしはもう一度佇つて其処の小さい崖と、落水の音を聞いた。 

 

名園の落水 室生犀星

www.aozora.gr.jp

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他にも犀星の出世作性に目覚める頃」や泉鏡花の「婦系図」、「滝の白糸」など様々な作品に兼六園は舞台となっている。私が訪れた時は北陸新幹線開通もあり、多くの観光客でにぎわっていた。松を主役に、桜、梅、カキツバタなどの木々や花々が園内を彩り、池や小川の水辺が和の趣きを感じさせてくれた。

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兼六園を見た後、金沢の名物である不室屋に行き麩のランチコースを食べた。

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どれも美しく飾れているが、麩はグルテンの塊なので想像以上におなか一杯になった。

昼食後は金沢を離れ七尾へ向かった。

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七尾へ向かう途中、ドライブできる砂浜、千里浜なぎさドライブウェイを通った。この海岸は国内で唯一、砂浜をドライブできる海岸であり、世界的にも珍しいそうだ。訪れた時は夕方で、朱を流しながら秋の太陽をどっぷり飲み込んでいく海の様は感慨深いものがあった。日没を見届けた後、七尾にある和倉温泉へと到着した。旅館ではカニなどの北陸を代表する食材が卓を彩っていた。食後一息ついてから露天風呂へと向かった。温泉とともに夜、船の燈火のように輝く星空の下、露天風呂から見える油を刷いたように鈍く光り黒い日本海が旅館の明かりによって時々金波、銀波をたてている景色が非日常をもたらし、日ごろの疲れを癒してくれた。

 

翌朝もまだ日が昇らぬうちに露天風呂へ入った。沈黙を包む波音は、夜が明けるとともにくっきりと鮮やかだったのが、鳥の鳴き声や船の汽笛や船によって生まれてゆく波によって打ち消される気がした。そして東から昇る灰青色の最初の朝の光がはるかな星と旅館の明かりのみで染まった海を最初は錫箔を張ったようだったのが、徐々に暗い青へと変わっていく。目の前に開けた果てしなく大きな眺めが 鬱積していたものをきれいに取り払い、きれいな大気が心を満たしていくようであった。

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朝食をとり、私たちは近くにある氷見へと向かった。氷見への向かう際の空は雲がちらちらと浮かんでいるものの、空の大半は澄んだ青色で、これは今の私の気持ちと同じくらいに快晴であった。

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氷見へ向かう途中雨晴海岸へ立ち寄った。「雨晴」という地名は義経伝説に由来すると言われおり、1187年、源 義経一行が山伏姿に身をかわし、奥州平泉へ落ち延びる中、弁慶の持ち上げた岩の陰で、にわか雨の晴れるのを待ったという伝説から「雨晴」という地名で呼ばれるようになったそうだ。また奈良時代歌人大伴家持も生涯のうちの約5年間を国守として越中で過ごした中で『馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に』と雨晴海岸を詠った歌が残されている。

浜から眺める岩礁富山湾越しに見る3,000m級の立山連峰雄大な眺めは、息を呑む美しさであった。

 

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美しき海岸を見た後、氷見うどんを食した。一般的な手延べうどんの場合、麺が折れにくいようあえてコシを出さない場合が多いが、稲庭うどんと同じで竹によりながらかける手縫いで作る氷見うどんは生地に対して力を加え練り上げるため、手延べの滑らかさと手打ちのコシを共に具有している特徴がある。つるりとした触感と喉ごしが最高であった。

氷見うどんを食べた後、再度金沢に向けて帰った。到着後、茶屋街を巡った。茶屋町創設時の敷地割をよく残し、全国でも希少な茶屋様式の町屋を多く残しており、大変貴重な存在となっている。

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夜になるとまた茶屋街は違う味をだしてきた。茶屋街にある酒屋でこのお酒を買って金沢を後にした。

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人生初の北陸であり、北陸新幹線でさらなる観光客増加している金沢。加賀百万石の城下町として名に恥じることなく美しく歴史ある街であった。街並みだけでなく多くの文化がはぐくまれ食なども非常に美味しかった。また金沢から少し外れて能登半島和倉温泉や氷見などまだまだ多くの観光資源に恵まれており、東北同様、再度訪れたいと感じた。

 

 

ここまで魅了するのは、もしかすると人を惑わす魔物羅刹が金沢にはいるのかもしれない————。