道祖神様の下着は何色か。

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南紀巡礼行記③

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熊野三山

昨夜の泥酔にしては早起きができた。そして駅前のバス停に向かい、熊野三山へ向かうことにした。

 

熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称である。熊野の地はイザナミが葬られた地と日本書紀にあり、古来より修験道の地とされた。奈良時代は、熊野本宮大社、熊野速玉大社の2社で那智は修行の地とされてきた。3社が興ってくると、3社のそれぞれの神が3社共通の祭神とされるようになり、また神仏習合により、熊野本宮大社主祭神の家都御子神阿弥陀如来、新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神薬師如来熊野那智大社熊野牟須美神は千手観音とされた。平安時代後期になると、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになってくる中で、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、熊野の地は浄土と見なされるようになった。浄土とされたのは霊場であったことと皇室神話と縁の深い吉野、伊勢に囲まれていたことも関係していたといえよう。

 

私が最初に向かったのは熊野本宮大社である。現在の社地は山の上にあるが昔は熊野川の中州にあった。明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。現在、旧社地の中州は「大斎原」と呼ばれ、日本一高い大鳥居が建っている。

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それにしても階段の段数が多すぎて、拝殿に向かう頃には息が切れていた。

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拝殿には4つの宮が建っており、右から東御前、証誠殿、中御前、西御前となっている。そして次の順番で参るのが正しいとされている。

 

①証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神(素戔嗚尊

②中御前(結宮・第二殿)速玉大神

③西御前(結宮・第一殿)夫須美大
④東御前(若宮・第四殿)天照大神

 

また熊野のシンボルとして八咫烏が有名である。八咫烏神武天皇の東征の際に案内した三本足のカラスである。熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏熊野大神素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されている。三本足は天、地、人を表し太陽を意味する三つ巴とも関係しているといわれているが、記紀に三本足の記述はなく平安以降にみられることから中国の太陽の化身たる三足烏の伝説が融合したのかもしれない。

 

本宮を参り大斎宮に行った後、せっかく来たので軽い気持ちで熊野古道を歩こうと思った。熊野古道はいくつかのルートがあり、そのうち多くの旅人が歩いたのは、京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路、そして田辺から山中に分け入り熊野本宮に向かう「中辺路」である。そのほか、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう「大辺路」、高野山から熊野へ向かう「小辺路」、伊勢と熊野を結ぶ「伊勢路」、吉野・大峯と熊野本宮をつなぐ山岳修験道大峯奥駈道」などがある。

 

そして今回私が歩いたのは中辺路である。熊野本宮大社から滝尻王子までの約38㎞を歩くことにした。

 

もう一度言う38㎞である。

 

昨日の反省が全くできていない。とりあえずノリでどうにかなると考える死文脳がよくなかった。最初はどうにかなる。

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本宮から8㎞ぐらい離れた発心門王子でやめておけばよかった。なぜかアドレナリンが異常分泌していたのかまだまだいけるなど錯覚し調子に乗りすぎた。さらに地獄なことに携帯の充電も切れ、絶望に陥る。バス停があったのでバスの時刻表見てみる。

 

すると。。。。

 

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週に1回しか来ないやん!!(# ゚Д゚)

 

そうこうするうちに日が暮れてしまった。さすがに初めての山道を夜歩くのは危険すぎる。ということで野宿が確定した。

 

私は山伏か?

 

幸い食料と水があったので栄養面では困らなかったが、最大の敵は虫である。

 

蚊にかまれ、かゆすぎて眠ることもできないとイライラを募らせてる中、ふと空を見るとそこには満天の星空が広がっていた。光など全くないので光害もなく様々な星が見える。高い空を見上げ、無数の星の光の中にいかに私たちのいるこの地球の小ささを、従ってどのくらい私自身の小さいかを考えていた。肉眼では漆黒に見える星と星の間にあるスペースも我々には見えない明るさで地球に光を伝えている。一つ一つの星々が何かを伝えようと躍起になっているのだろうか。星はそれぞれ光の強さ、色、大きさなど様々な個性があり、自分が何者であるかを饒舌に伝えようとしているかもしれないが、今の私達にはとけない暗号のようなものでもどかしさもある。

 

当時参詣していた人々もこの夜空を見ていたのだろうか?いや星々にとっては人間の営みなど刹那であり、私たちが見ているのではなく見られているのだろう。夜空の星という目にはどのように見えているのだろうか?

 

まあ見る見られるの問題はいかにせよ、常に天を見上げ、聴き、光を待つ場所にいるのだ。

 

こんなくさいことを考えていると、いつのまにか眠りに落ちていた。

 

翌朝結局目覚めはのどの渇きと体のかゆみであった。起きて水を飲むとすぐに出発し、滝尻王子まで駆け抜けた。そして参拝した後、バス停のある発心門王子まで急いで戻り、本宮までバスに乗って私の熊野古道の修行は終えた。

 

しかし本宮に到着したら終わりというわけではなかった。本宮から新宮までのバスはもう終わっていたのだ。もう2日連続で野宿はしたくないという強い意志から、ヒッチハイクをすることを決意した。もうすでに多くの観光客、参詣客は帰っていたので至難の業であった。待つこと1時間、地元の林業の方が麓に用事があるといって、送り届けてくれた。本当にうれしくて涙がでた。新宮まで送り届けてもらい何度もお礼をしたのち、那智速玉も参り、紀伊勝浦へと向かった。

 

紀伊勝浦は温泉やマグロで有名なためホテルもそこそこあるだろうと踏んでいたのだが、温泉宿が高すぎる。コンビニでお金を降ろそうにもコンビニがない。安そうなビジネスホテルで値段を聞くもその時財布に入っていたお金では払うことができず。途方に暮れていると、ホテルの方が無料で宿泊させてくれた。さらに夕ご飯までごちそうしてくれたのだ。

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右手にあるのは熊野や吉野の郷土料理で高菜の浅漬けの葉でくるんだ弁当用のおにぎ『めはりずし』である。南紀・熊野地方の山仕事や農作業で食べる弁当としてはじまったと伝えられている。目張り寿司という名称は、大きく口を開けて食べるため、それに伴い自然と目も見開く表情に由来するという説や、目を見張るほど大きくておいしいからという説、あるいは、おにぎりに目張りするよう完全に包み込むことに由来するという説もある。素朴な味わいながら高菜の浅漬けの塩味が非常に美味しかった。

 

翌朝さすがに無料で泊めてもらい申し訳なかったので、ホテルの朝食と清掃の手伝いをし、那智へ向かった。

 

次回 『那智・勝浦 さらば紀伊半島』お楽しみに!!