道祖神様の下着は何色か。

404 your girlfriend not found

或阿呆の東欧旅行⑬ ブダペスト編-1

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東欧旅行 ブダペスト

ミュンヘンからブダペストまで再度夜行列車で行くこととなったが、DB(ドイツ鉄道)が運営しているせいなのか寝台料金が非常に高額であった。そのため寝台ではなく座席にすることにした。8時間近く座席とは日本が誇るスラム列車ムーンライトながらである。

 

だがここは日本ではない。

 

ヨーロッパであるベルリン=ワルシャワ間の寝台列車では寝台にカギがかからず強盗が頻発していると聞いていたため財布やパスポートは下着の内側に入れ乗車した。

 

いざ乗車してみると怖い。男が隣の座席になるだけで満足に眠ることもできない。しかし一日中歩き通していたので眠ってしまった。幸いなことに何も盗まれることなくやり過ごせた。ブダペストに到着したとき我々は一銭も持っていなかったので、3㎞ほど離れたホテルまで歩くことにした。しかし列車で寝たとはいいつつも、座席なため疲れはとても残っていた。

 

ホテルに着き荷物を置きブダペスト市街を観光することにした。ブダペストハンガリーの首都でドナウ川の両岸にある「ブダ」と「ペスト」の二都市が合併してできたものである。

まず聖イシュトバーン大聖堂に行った。

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聖イシュトヴァーン大聖堂は、ハンガリー王国の初代王で、1083年に列聖されたイシュトヴァーン1世にちなんでいる。

イシュトヴァーン1世とは、国の統一とキリスト教化を進めたハンガリー建国の父。アジア系の遊牧民族を祖先に持ちながら、キリスト教を受け入れ、ハンガリーをヨーロッパの一国として位置づけることで、ハンガリーの礎を築いた。主祭壇にはキリストではなくイシュトバーン1世の像である。また聖遺物として彼の右手のミイラが安置されている。これは彼の遺体の内、失われていた右手がトランシルヴァニアで発見され、各地を転々とし18世紀末にマリア・テレジアによってこの地に戻されたのである。

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次に国会議事堂に向かった。中にはハンガリー王が代々受け継いできた、聖イシュトヴァーンの王冠と宝珠や宝剣、王杓などの戴冠式用の品がこの議事堂内で保管展示されている。また議事堂近くの駅に隣接するマクドナルドが、かのエッフェルが設計した建物に入っているので世界一美しいマクドナルドといわれている。

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ドナウ川を渡りブダ地区へと渡った。そしてハンガリー王が居住していたブダ城へ向かった。ブダ城はモンゴル帝国オスマン帝国の攻撃により破壊されてきたが、マリアテレジアの手によって現在の形へとなった。現在は博物館や美術館となっている。

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白い石灰岩でできた尖塔が連なる「漁夫の砦」は、ドナウ川沿いの崖の上に建造された回廊で、砦と呼ばれているが、戦いに利用するためのものでなく、町の美化計画の一環として建造されたものである。かつてはここに魚市場が立ち、ドナウの漁師組合がこの一帯を守っていたことから、「漁夫の砦」と呼ばれるようになったそうだ。

柱頭装飾の施された2連の柱が並ぶ美しい回廊からは、ドナウ川の対岸に広がるペスト地区が一望のもと!町並みの中から突出するような聖イシュトバーン教会や、国会議事堂の姿が眺められる。

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漁夫の砦に繋がるように三位一体広場があり、台座も素晴らしい彫刻が施された聖イシュトバーンの銅像と三位一体の像が、マーチャーシュー教会を挟むように堂々と建っている。
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教会内はこんな感じであった。

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そしてこれがブダ王宮である。

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写真をたくさん上げすぎたので、とりあえず今回はここまでとしておく。

 

次回 最終回『夜のブダペスト編』お楽しみに!!

或阿呆の東欧旅行⑫ ミュンヘン編-3

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東欧旅行 ミュンヘン

ミュンヘン市街を観光した翌日私たちは南ドイツを観光しようとなった。そこでドイツで一番有名ともいえるノイシュバンシュタイン城に行くことにした。

 

ノイシュバンシュタイン城

バイエルン州の最南西部に位置し、ロマンティック街道の終点であるフュッセンにこの城はある。この城は19世紀にバイエルンルートヴィヒ2世によって建設された。伝統的様式に見えるが石造りではなく鉄骨組みのコンクリート製である。これはルートヴィヒ2世の中世騎士道への強い憧れがあったことに起因する。この城は軍事拠点としての「要塞」としてではなく、また政治や外交の拠点としての「宮殿」として建設されたものでもなく、ルートヴィヒ2世のロマンティック趣味のためだけに建設されたもので、ドイツの城館に本来は必ずあるべき小聖堂や墓地がこの城にはなく、玉座を後回しにしてもヴィーナスの洞窟と名付けられた人工の洞窟が建設されるなど、実際の住居としての居住性はほとんど考慮されておらず、施設としての実用性は無視された設計になっており、居住にも政務にも軍事にも不向きな城である。この王の完全な趣味による城は他にも多く建設されていたがプロイセンの宰相ビスマルクドイツ統一支持をする見返りもらった資金と王室費から支出され、バイエルン政府の国庫とは別会計ではあったものの、王室公債などを乱発して借金を積み重ねた。のちにバイエルン王国プロイセン普墺戦争の賠償金を抱えたバイエルン政府がこの事態に王を精神鑑定にかけ統治能力なしとして監禁した。その翌日に主治医とともに水死体となる謎の死を遂げた。その結果、ノイシュバンシュタイン城を含む多くの城が未完成となっている。

 

ミュンヘンから電車で2時間ほどの場所にこの城はあるが、ふもとの街フュッセンから城まで向かうまでのバスには多くの観光客がいた。特に日本人のツアー客が多くいた。城は山の頂上にあるため冬の雪山を私たちは登ることとなった。麓にはルートヴィヒ2世の父が所有していたホーエンシュヴァンガウ城がある。

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それにしても寒い、寒すぎる...

 

確かこの日の気温は氷点下でアウシュヴィッツの時並みに寒かった。

 

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これは山からの景色

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城内も見学できるのだが入場時刻指定のガイドツアーであるため時間になるまでまだまだ余裕があったので昼食をとることにした。

 

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はい、本日の昼食はソーセージとビールです。人とは愚かな生き物です。

 

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寒かったからアルコール入れれば暖かくなると思ったんです。

 

許してくださいなんでもしますから!!

こんな小ネタはさておき昼食後城にいったがなんと改装工事中と雪でほとんど見れないという事態になった。さすがにわざわざ日本から来て保護シートがかかった城を見て満足できるかって話である。さらにマリエン橋という城を見ることができる橋も立入禁止などとかいてあった。

 

まあここまで来たらやることはただ一つ…

 

侵入しかない。

 

いや非常に迷ったきまりを守ることも大事だけどもう我慢できなかったし、普通にゲートは開いているのだから全然入れるのである。

 

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これが本来なら見れる限界である。満足できるだろうか?

 

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一方少し侵入するだけでこのように景色が変わるなら仕方がない。

 

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これがマリエン橋であるこの橋にカギをかけると結ばれるらしい…

やはりよかった少し無茶するだけでこんな絶景が得られるとは思ってもいなかった…

 

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ノイシュバンシュタイン城を観光した後、我々はまたビアガーデンに行きビールを飲み、ブダペスト行きの夜行列車に乗った。

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今回は南ドイツしか観光できなかったが、ドイツはとても魅力のある国で再度ドイツ単体で是非行ってみたいと思う。

 

次回 『ドナウ川の真珠 ブダペスト編』お楽しみに!!

或阿呆の東欧旅行⑪ ミュンヘン編-2

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東欧旅行 ミュンヘン

大失態を犯した私はまさに刑務所ホテルで目を覚めると本当に逮捕された気分となり大変憂鬱な朝を過ごした。今日こそは昨晩のようなことを起こすまいと心に決め、市街地に出た。

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とりあえずミュンヘン中心地マリエン広場(Marienplatz)に向かった。マリエン広場(Marienplatz)はミュンヘン有数の観光名所で、ミュンヘンの中心となる広場だ。
その歴史はとても古く、中世にはここで市場や決闘などが行われていた。マリエン広場の中心にはマリア像(Mariensäule)が置かれているが、これはスウェーデン占領が終わったことを祝って、1638年に建てられた。マリア像の土台の各コーナーに設置された天使と動物の闘いを表す像は、都市がいくつもの災難を克服する様子を象徴している。ライオンの像は戦争、コカトリスはペスト、ドラゴンは飢饉、ヘビは異教を表している。マリエン広場の一角には、ミュンヘンのランドマーク的存在の「新市庁舎(Neues Rathaus)」がある。ネオゴシック様式の壮麗な建物で、優雅な美しさと迫力に圧倒された。マリエン広場の一番の目玉はこの新市庁舎にあるからくり時計である。32体の等身大の人形の華麗なダンスや演奏が繰り広げられるという大掛かりなものである。

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次にミュンヘンレジデンツに行った。ミュンヘンレジデンツミュンヘンの旧市街北部にある、旧バイエルン王国ヴィッテルスバッハ王家の王宮である。現在は博物館や劇場として公開されている。

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私が一番印象に残ったのはアンティクヴァリウムという大ホールである。16世紀のアルプレヒト5世時代に建てられたもので、現存するレジデンツの中では最も古いものだという。長さ69mのルネッサンス様式の丸天井にはびっしりとフレスコ画が描かれており、横には歴代ローマ皇帝の彫刻が並んでいる。

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祖先画ギャラリーと呼ばれている回廊。
ヴィッテルスバッハ家が支配を始める前のバイエルン地方を治めていた貴族の肖像も含め、121人のヴィッテルスバッハ家当主とその一族の肖像画が壁にずらりと並んでいる。天井の漆喰と金細工がまばゆいばかりに絢爛豪華であった。だがシェーンブルン宮殿を見ているのといつまでも単調な間取りで飽きてしまった。

 

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私たちはその後昼食をとった。昨晩あれだけ酒は飲まないと誓ったのだが飲んでいる。人とは愚かなものである。酒は明らかに人間にとって敵だが

 

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 マタイによる福音書5章43-48節

 

ほら聖書も言ってるから大丈夫だね(異端者)

 

これは公会議で火刑に処される、、、、、

 

まあ私は意志薄弱なのでチョリソーとビールの誘惑に負けました。

 

その後バームクーヘンの名店「クロイツカム」に行った。宮廷御用達の老舗のようだ。

注文したバームクーヘンデザートは、いわゆるバームクーヘンというより、フルーティーなパウンドケーキのようであった。なかの生地がトロリとしている。フルーツのクリームは柔らかすぎず固すぎずで絶妙であり、コーティングされたチョコは濃厚なビターでコーヒーとの相性もよい。ラムレーズンが全体の味に統一感を持たせている。

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ミュンヘン市街を観光したのちにミュンヘン出身の大学同期から教えてもらった店に行った。観光客はおらずほぼ地元民であり、とても良い雰囲気であった。そこで中年の夫婦と相席することになった。その夫婦と意気投合し会話しながら飲んでいたのだが『サムライスタイル』などといい一気を何度も強要してきて楽しくもあるも正直つらいものがあった。

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夫婦は気に入ってくれたのか私たちの分まで支払ってくれた。

 

飲みにケーションは世界をつなぐのかぁ、、、、

 

御馳走してもらい気分がよくなった私たちは本命のノイシュバンシュタイン城のために早く寝ることにした。

 

次回 『ミュンヘン編 シンデレラ城のモデル、ノイシュバンシュタイン城』お楽しみに!!

或阿呆の東欧旅行⑩ ミュンヘン編-1

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東欧旅行 ミュンヘン

ザルツブルクを発ちミュンヘンに到着したときには夜になっていた。

 

とりあえずホテルに荷物を預けに向かった。ミュンヘンの市街地から少し離れていたが安かったので泊まることにした。

 

だがホテルを見て絶望と激しい後悔に襲われた。見た目がどう見ても刑務所なのである。部屋の扉も格子が付いており外から丸見えであり、香港のホテルに匹敵するほど狭いのである。またシャワーもライトが付かず2月という真冬にも拘わらず水しか出ない。また最悪なことにWi-Fi完備と言いながらも使用できず、ネットと書いている情報が何一つとして存在しないのである。

 

正直疲れていたので寝たかったのだが、ホテルに滞在するより外にいたほうが安全だと思い夜のミュンヘン市街へと向かった。そして私たちはドイツに来たからにはということでビアガーデンに行くことにした。最初なので観光客向けのところにいったが、地元民も多くいるようだった。とりあえずビールを頼んだのだが、、、、

 

でかい でかすぎる!!!

 

いや日本のジョッキが小さいだろうとは思っていたが1リットルのメガジョッキで来るとは思わなかった。さらに日本大手3社のどのビールより味が濃い。さらにアルコールも強く感じた。この一杯でほろ酔いになった私たちはスイッチが入りはしごすることにした。次に入った店はいろいろな会社のビールが飲めたのだが、リッターを飲むにつれて判断を失い、池沼系大学生の私たちは愛飲の強零酒よりも度数の高い

 

14%

のビールを遊びで何杯も飲んでしまった。ただでさえお酒が強くない私は旅の疲れで酔いが早く回り、トイレに駆け込んだがここで大きな過ちを犯してしまう。

damen

herren

どっちが男子トイレだと思うか?私はherrenはヘレンケラー的な感じで女と思いdamenはmenとついているの男と思いdamenと書かれたトイレに突入した。これが寄っていなければもう少し考えを巡らせていただろうが酔った私に思考という二文字なくただ直感で直進あるのみとして入ってしまった。しかしトイレに入っても一つも小便器がない。ここにてすべての酔いが覚め、焦った。とても焦った。欧米では性犯罪は重罪とされているので、もし通報されたらおしまいである。

 

だが、、、運の悪いことに淑女がトイレに入ってきたしまった!!

 

謝罪すれば許してくれるだろうと思ったが焦るあまり私は

 

Danke schön

(ありがとう)

 

終わった、、、、、何を私は言っているのだ。焦るあまりにタイミング的に一番ダメな言葉を言ってしまった、、、、

 

だが幸運なことに淑女は酔って間違われた観光客と思ったのだろうが微笑み、おとがめなしであった。

 

本当にありがたい、これこそDanke schönである本当に通報されなくてよかった。とても恥ずかしいドイツデビューを果たした私は二度と酒を飲まないと誓い、友人と刑務所ホテルに帰った。

 

 

 

次回 『ミュンヘン市街地 観光編』お楽しみに!!!

 

 

或阿呆の東欧旅行⑨ ザルツブルク編

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東欧旅行 ザルツブルク

ウィーンに3日間滞在したのちに私たちはミュンヘンでドイツビールを飲むために西に行くことにした。そこでミュンヘンへの道中にある都市ザルツブルクを訪れることにした。ザルツブルクオーストリアの西部に位置する都市であり、ザルツ[塩]、ブルク[砦]を意味する。やはりこの都市といえばモーツァルトであろう。ザルツブルクモーツァルトが1756年に誕生してから25歳まで住んでいた事で、彼の音楽を愛する世界の人々にとっていわば巡礼地になっている。

 

ザルツブルクに到着するととりあえずモーツァルトの生家に行くことにした。モーツァルトの生家には、モーツァルト自身が書いた貴重な自筆譜が数多く展示されており、モーツァルトが家族とやりとりした手紙を見ることが出来ます。また、当時モーツァルトが愛用していたピアノやヴァイオリン、日用品や家具も置いてあり歴史を感じることが出来た

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それにしても通りの看板がとてもおしゃれだった。

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マクドナルドでさえこのように街に溶け込んでいる。

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通りを抜け市街を一望できる岩山の上にホーエンザルツブルク城は堂々そびえたっている。この地域の象徴的建物で、街のいたるところから眺めることができる。ホーエンザルツブルク城は、1077年に建設されて以来、幾度もの拡張が行われてきた。そして、17世紀に現在の姿になったといわれている。また、今でも完璧な状態で残り、その作りは非常に頑強で、過去に一度も占拠された歴史がない貴重な城塞としても知られている。

ホーエンザルツブルク城の頂上まではケーブルカーを利用することもできるが訪れた時には営業を終了しており仕方なく階段を上ることにしてもにしてもきつすぎる。金比羅山を登らされているかのような段数であった。その苦しい階段を抜けるとそこには町を一望できる美しい風景が広がっていた。

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闇に染まりゆき光が点き始めるザルツブルクはとても美しいものであった。城を降りたころにはすでに町は完全に暮れていた。

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それから私たちはホテルザッハーがあったので再びウィーン同様にザッハトルテを食べることにした。やはりこの甘味の中にある酸味が実に美味だ。

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ホテルザッハーでの至福の時を過ごし、その日は近くのホステルに泊まることにした。

 

翌日私たちは映画「サウンド・オブ・ミュージック」のロケ地としても知られているミラベル宮殿を訪れた。映画ではペガサスの泉の周りで、マリア先生と子ども達が「ドレミの歌」を歌うという有名な場面で使われていたが、多くの観光客が真似をしていていささか滑稽であった。

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しかしどうも現地の人々はサウンドオブミュージックに対して、アメリカの作ったものとしてあまり良い評価をくだしてないようであった。

 

ザルツブルクをほぼほぼ観光し終えたので私たち本命のビールを求めてミュンヘンへと発った。

 

次回 『ビールに溺れる私?! ミュンヘン編』お楽しみに!!

或阿呆の東欧旅行⑧ ウィーン編-3

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東欧旅行 ウィーン編 終

スイーツに満足した夜が明け、昨日行けなかった美術史美術館に行くことにした。

 

美術史美術館は古代から19世紀末までのヨーロッパ各地の美術品が収容されている。収蔵品の数も然ることながら、なんといっても建物の立派さに目を引かれた。様式はネオ・ルネサンス様式の宮殿のような外観であり、美術館入り口の柱頭はドーリア式、イオニア式、コリント式と古代ギリシアの神殿様式が表現されている。

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主な収蔵品はオーストリア、ドイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダの各地ハプスブルク家の領土において生み出されたものである。特にピーテル・ブリューゲルの40点のうち12点がウィーン美術史美術館に収蔵され、世界一を誇っている。これはブリューゲル神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のお気に入りだった事もあり、多くの作品がハプスブルク家のコレクションになっていたからといわれている。ピーテル・ブリューゲルは16世紀のフランドル(ブラバント公国、現在のベルギー)の画家で、ネーデルランド絵画で最大の巨匠である。作品40点のうち30点はブリュッセルで晩年の6年間に製作されたといいます。とりあえず主な収蔵品でも載せておくとしよう。

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ピーテル・ブリューゲル『子供の遊戯』(1560)

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ピーテル・ブリューゲル『雪中の狩人』(1565)

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ルーベンス『聖母被昇天』(1618-1620)

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ピーテル・ブリューゲルバベルの塔』(1563)

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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオゴリアテの首をもつダビデ』(1606-1607頃)

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ヨハネス・フェルメール 『絵画芸術』(1667)

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ラファエロ・サンティ 『草原の聖母』(1506)

 

それぞれの絵にひとつずつ解説するのは大変なので「子供の遊戯」だけしようと思う。

この作品はブリューゲルの初期の代表作である。画には幼児から若者まで幅がある人物とおよそ80種類の遊戯が細かく描き込まれている。おそらくブリューゲルの意図は、単に子供の遊戯を百科事典的に寄せ集めて示すことではなく、遊戯に打ち込む子供の真剣さと、一見それよりも重要な仕事に注ぐ大人の真剣さとを同列に並べることにあったと考えられる。神の目から見れば、子供の遊戯も大人の仕事も重要さでは変わらないということである。逆にいえば、市役所とも思われる大きな建物が子供たちで占められていることは、市政を取り仕切っている大人たちが神の目から見れば子供同然だという暗喩とも考えられる。

 

開館から閉館までいたが、それでもすべてを鑑賞することが出来なかったので、また行こうと思う。閉館後翌日どこに行くかで迷った。ウィーンから南下しクロアチアセルビアまで行くか西へ行き、オーストリア西部や南ドイツかに別れたが、ドイツビールをどうしても飲みたいという衝動に駆られ西へ行くことにした。

 


次回 モーツァルトの生家とサウンド・オブ・ミュージックの舞台 ザルツブルク編 お楽しみに

 

 

或阿呆の東欧旅行⑦ ウィーン編-2


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東欧旅行 続・ウィーン編

大分更新遅れて申し訳ないです…

ウィーンに到着して一日目は市街を観光し、2日目は少し郊外に出てシェーンブルン宮殿に行くことにした。シェーンブルン宮殿ハプスブルク王朝が夏の離宮として使用したものである。シェーンブルンとは「美しい泉」という意味でこの地に湧き出す泉にちなんでいる。17世紀末に建てられた後に18世紀に女帝マリア・テレジアによって現在の姿に改築された。ウィーンにはいくつもの宮殿があるがシェーンブルンは最大規模である。外観はバロック様式、内部はロココ様式をとりいれ1400室もの部屋がある。現在はそのうち40室ほどが公開され、「会議は踊るされど進まず」で有名なウィーン会議が開催され大広間や6歳のモーツァルトが公演した鏡の間などが代表的である。

 

宮殿の背後には広大な庭園が広がっており、マリア・テレジアの時代から造営が始められたフランス・バロック様式で、シェーンブルンの丘のネプチューンの噴水を中心に、ローマ遺跡風の石造物やグロリエッテ、迷路庭園、動物園、ヨーロッパ最大の温室、さらには日本庭園などもあり、当時のハプスブルク家の権力の大きさに圧倒された。



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宮殿の後方にあるシェーンブルンの丘の上に建つのがグロリエッテ。グロリエッテはフランスへ嫁いだマリー・アントワネットからの強い勧めでマリア・テレジアが建てたもの。彼女はこのグロリエッテをことのほか愛し、忙しい公務の間にも屋上テラスでコーヒーを楽しんだという。

現在のグロリエッテは第二次大戦で爆破されたのちの再建である。
グロリエッテからの眺めはすばらしく、庭園と宮殿、そしてウィーンの街並みが一望できた。

 

シェーンブルン宮殿を観光した後に市街地に戻り美術史美術館に入館しようとしたが、時間が遅く入ることは出来なかった。

 

美術館に入れなかった腹いせに甘いものをバカ食いしたいとなり、近くのカフェに入ることにした。そこで私たちはホテルのスタッフから勧められていたカイザーシュマーレン(独: Kaiserschmarren)を注文することにした。カイザーシュマーレンとはザッハトルテに並ぶ、オーストリアの最も有名なデザートのひとつであり、オーストリア=ハンガリー帝国の時代から人気がある。どんなスイーツかというと要は大量のパンケーキである。なぜカイザーと皇帝と名付けられているのかには多くの説があるが、どれもフランツ・ヨーゼフに関連するものである。ある説には、皇帝とヴィッテルスバッハ家出身の妻エリーザベトに関わるものである。その美貌で有名であった皇后エリーザベトは腰回りを細く保つことに執心し、王室の料理人に低カロリーのデザートのみを調理するよう命じて、厳格なことで悪名高い皇帝を狼狽させ、いらだたせた。料理人がこのデザートを用意すると、エリーザベトは栄養豊富すぎることを理由に食べることを拒否した。激怒したフランツ・ヨーゼフは「では、料理人がどんな「Schmarrn(パンケーキ)」を即席で作ったか見せてくれ」と皮肉を言った。結局フランツ・ヨーゼフはこれを気に入り、エリーザベトの分まで平らげた。こうして、この皇帝の承認を得たデザートは帝国中でカイザーシュマーレンと呼ばれ、彼女の分まで食べたことからとても多いのである。

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ホテルのスタッフがとても量が多いと聞いていたが、正直たかを括っていた。だが提供されたものはやはり皇帝の名にふさわしく規格外の量で2人でやっと間食できるほどであった。

 

予想外の満腹になり、肉体的にも精神的にも満足し明日の美術館へ向けて寝ることにした。

 

 

 

 

 

次回!! 『続・ウィーン編 』お楽しみに!!