道祖神様の下着は何色か。

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或阿呆の東欧旅行⑤ ポーランド編

東欧旅行 ポーランド編 

 

プラハから地獄のようなスラム列車で夜を明かし、ポーランドクラクフに到着した。

 
 
私達がポーランドに来た理由はただ一つ、人類の負の遺産アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に行くためだ。ホームに降り立ちアウシュヴィッツ(ポーランド語ではオシフィエンチム)行のバスを探していると、陽気な中年男性が近付き、アウシュヴィッツまで送り届けてくれるとのことだった。すぐに白タクだとわかったが収容所では手荷物の大きさが決まっておりロッカー代も兼ね、値段交渉し白タクに乗ることにした。
 
 
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ポーランドの古都、クラクフから車で2時間ほどの小さな村にある。強制収容所アウシュヴィッツ第一強制収容所と少し離れた場所にアウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウに分かれている。クラクフからアウシュヴィッツまでの道のりは永遠と畑が続く美しもあり、寂しさをどこか感じるような風景が続いていく。財布の盗難などを恐れ寝ないように心掛けていたが、やはり昨夜の疲れから眠りについてしまい運転手の拙い英語で目が覚めると目的の場に到着していた。 

 
第一強制収容所の開館とほぼ同時に着いたようだが既にツアーなどの観光客で混雑していた。通常は事前に予約してガイドを付けるようだが予約をしてない私達は友人と2人で他の団体に寄生して回ることにした。
 
 
収容所に入ってまず有名な「働けば自由になる」の門が出迎える。

 

収容所の敷地に整然と並ぶバラックの中は収容された方の写真や使用したものがたくさん展示されていた。下の写真は収容された方の靴である。他にもメガネや衣服、髪で紡がれた糸など胸を締め付けられるようなものがたくさんあった。

そしてここが多くの罪なき人々が銃殺されていった「死の壁」である。この壁の前で多くの人が祈りを捧げていた。

 
復元された焼却炉

どの展示も収容所の悲惨さを物語るものでガイドの解説がより私達を憂鬱にさせていった。一通りガイドを盗み聞きをした後、私達はここから第二強制収容所のほうへ向かった。

第二強制収容所は第一強制収容所と異なり広大な土地に施設が点在している。プラハとは比べ物にならないぐらいのまるで五臓が締め付けられるかのような寒さの中、臼杵で厳しい労働を強制された人々に思いを馳せた。戦争から70年が経ち戦争の風化が叫ばれる中、ここで来ることによって改めて平和の重要性を再認識した。

 

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そして私たちは慰霊碑に祈りを捧げた後、クラクフへ戻った。
 

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クラクフに戻った私たちは沈んだ気持ちを肉と酒で流すことにした。空腹が満たされたことによって幾何か元気を取り戻し、市街を観光することにした。
 
ヴァヴェル城

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立教大学のような見た目だがワルシャワに首都が移る16世紀まで、このヴァヴェル城に歴代ポーランド王国の王が住んでいた。敷地内には大聖堂や旧王宮、王の墓など、歴史的な建造物が数多くある。 

 

聖マリア教会

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クラクフの中央広場にあるポーランドを代表するゴシック建築である。毎時間ラッパの時報が流れるのだが途中で必ず止まる。これは13世紀にモンゴル軍の襲来を知らせる警笛を鳴らしていたラッパ兵が演奏の途中に狙撃されたことに由来しているそうだ。

 

織物会館

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かつて王国が栄えていた際は古今東西の品々が取引されていたクラクフにおいて貿易の中心的役割を担った場所である。中国からは絹、イギリスから毛織物などが取引されていた。ルネサンス様式の美しい建物はさることながら、今でもなお館内には革製品や民芸品、アクセサリーなどの店がせめぎあっておりかつての賑わいを感じることができる。

 
他にも王国がユダヤ人を保護したことからユダヤ人街が残っており、シナゴーグという礼拝所が数多くあった。観光を一通りし終えたころには日もすっかり落ち、夜になっていた。そこで駅に戻り、次の目的地であるウィーンへ向かうことにした。日本でいうみどりの窓口のようなところへ行きウィーン行きの列車について尋ねると…
 
 
また寝台列車しか残ってなかった!!
 
 
昨夜の失敗から絶対に寝台列車には乗りたくなかったが、限られた時間を有効活用するには、寝台列車は最適解ではあった。だが、いくら冬とはいえ2日間一日中歩き回った体で風呂にも入らず過ごすのは嫌だった。難色を私は示したがアチ村は当然のように寝台を予約しサインしてしまった!!またもや寝台列車に乗ることになった私たちはフーリガンがいないことを祈りながらホームで待っていた。案の定旧共産圏らしく30分は遅延してやってくる。もうレストランでの会計の遅さなどに慣れ、遅延なんぞ気にもしなくなっていたが、列車が到着しある問題が起きた。
 
それは…
 
 
寒すぎて列車の扉が凍結して開かない!!
 
 

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日本でも積雪により脚立を使い降車するという話は聞いていたが、扉が凍結した開かないという現状を前に降車するはずだった乗客も乗車予定の私達も思わず苦笑い
 
 
結局職員たちの努力によって乗車することはでき、今回は列車のドアが開かなかっただけで、トイレは普通に使用することができた(ここ重要‼)そして予定より一時間遅れてクラクフを後にして、音楽の都ウィーンへ向けて出発した。
 
 
次回!!『音楽の都ウィーン編』お楽しみに!!